出稼ぎ(読み)デカセギ

デジタル大辞泉 「出稼ぎ」の意味・読み・例文・類語

で‐かせぎ【出稼ぎ】

[名](スル)ある期間、家を離れ、よその土地や国に行って働くこと。また、その人。「農閑期に出稼ぎする」「出稼ぎ外国人労働者

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「出稼ぎ」の意味・わかりやすい解説

出稼ぎ
でかせぎ

農民などが一定期間居住地を離れて働き、就労期間経過後は居住地に帰る形態をいい、挙家離村や通勤兼業とは区別する。日本の出稼ぎは第二次世界大戦前から多様な形態がみられる。こうしたことから戦前日本の賃労働者の性格を「出稼ぎ型」とする大河内一男(おおこうちかずお)の見解が生まれた。

[伍賀一道]

農業政策と出稼ぎ

第二次世界大戦後、高度成長過程で農民層分解は急速に進み、出稼ぎも増加したが、これは戦前の出稼ぎとは性格を異にする。農業センサスによれば、1960年(昭和35)から1975年にかけて、農業専業従事者は1310万人から657万人へ減少したのに対し、兼業従事者は637万人から867万人へと増加した。このうち出稼ぎ形態の兼業従事者は1960年から1965年にかけて18万人から55万人へ急増したが、その後減少に向かい、兼業形態は出稼ぎから臨時・日雇い形態へ、さらに恒常的勤務形態へ移った。

 出稼ぎ農家が高度成長期に増大した要因として、政府の農業政策の果たした役割は大きい。それは、日本の産業構造を新鋭重化学工業へ転換する政策や地域開発政策と密接な関連をもちながら進められ、資本蓄積を進める大企業のために安価な農家労働力を提供した。農業基本法(昭和36年法律第127号)に基づく農政によって農業機械化は急速に進み、農業労働時間は短縮される一方、低農産物価格政策や資本による農業収奪(化学肥料や農業用機械などの工業製品と農産物との間の不等価交換など)によって農業所得が低迷した。そのため農民は農業経営費と家計費高騰の圧力を受けて農業外の兼業就労を余儀なくされ、農村周辺に就労機会が少ない地域では、働き口を求めて出稼ぎに出ざるをえなくなった。

 高度成長期を通して出稼ぎが多い地域としては東北地方が他を圧倒しており(1963年当時で全国の49.3%)、これに北陸(14.1%)、九州(10.1%)が続いていた。これらの地域は他地域と比べ地域内に雇用機会が乏しく、地域労働市場の形成が弱いという共通の特徴があった。出稼ぎ者のうち9割以上が男子で、その大部分が世帯主ないし後継ぎ層である。彼らの就労先は大都市に集中しており、農林省(現農林水産省)の「出稼ぎ調査結果報告」(1971)によると、京浜地帯に出稼ぎ者全体の47.4%、京阪神地帯に15.8%が就労していた。出稼ぎ先の産業は建設業が圧倒的に多く、これに製造業が続いていた。

 これら出稼ぎ労働者の労働条件は、賃金から社会保障に至る全般にわたって一般の常用労働者と比較し劣悪で、賃金不払いなどの事故も発生した。さらに高速道路やトンネル、ダム工事などでは出稼ぎ労働者が労働災害や塵肺(じんぱい)症などの職業病の犠牲になるケースが後を絶たなかった。だが出稼ぎ者の多くは出稼ぎ先での収入を高めることに専念し、その収入の大部分を家族のもとに送金し、家族の生活や農家経営の資金に充当していた。出稼ぎの恒常化は農村に残された家族にも深刻な影響を与えている。農業や家事の両面の中心になっている主婦には心身ともに重圧がかかり、農夫症などの健康障害を引き起こす一方、子供たちの教育面に与える影響も大きかった。

[伍賀一道]

低成長経済と出稼ぎ

高度成長期の前半に急増した出稼ぎは1960年代後半には減少傾向を示していたが、1970年代から1990年代にかけて減少のテンポをさらに速めた。農林水産省「農家就業動向調査」(後に「農業構造動態調査」と改称)によれば、農家からの出稼ぎ者数は、1973年30.3万人、1980年13.3万人、1990年(平成2)5.9万人、1993年には4.1万人にまで減少した。厚生労働省は出稼ぎ労働者を農家世帯員に限定しないで、「1か月以上1年未満居住地を離れて他に雇用されて就労する者で、その就労期間経過後は居住地に帰る者」と定義して調査しているが、これによれば出稼ぎ労働者は1971~1972年の約55万人をピークに年を追って減少している(1983年約29万人、1998年約11万人、2002年約5万人)。

 このように出稼ぎが急減した理由としては、1970年代なかば以降の低成長経済下の雇用調整によって製造業の出稼ぎ先企業で人員整理が進んだこと、建設工事が停滞したこと、出稼ぎ者の高齢化が進んだことなどがあげられる。出稼ぎの地域別分布は高度成長期と同様、東北地方がもっとも多いが、北陸・九州地方は大幅に減少した。厚生労働省「出稼労働者雇用等実態調査」(2005)によれば出稼労働者を雇用している事業所の産業別構成は建設業が73.2%に対し、製造業は18.2%である。事業所規模別構成では30人未満の小零細事業所が7割を占めている。なお、同調査はこれ以降廃止された。

 離職時の失業給付について、かつての失業保険法では出稼ぎ者にも一般労働者と同様の適用が行われていたが、雇用保険法(昭和49年法律第116号)に転換して以降は、離職時に短期雇用特例被保険者に対する特例一時金(失業給付の日額の50日分)が支給されるだけとなった。

 21世紀に入ったころより、北海道や東北、沖縄など地元に就職機会の少ない地域から、人材仲介業者を通して派遣労働者や請負労働者として、3か月~半年間の短期雇用契約で関東、東海、関西地域の工場などで働く人々が増えており、現代の新たな出稼ぎといえよう。派遣先企業の雇用調整弁として活用されているため、概して雇用は不安定である。2008年末から2009年初めにかけて社会的に注目された「年越し派遣村」に救済を求めた人々のなかにはこのような出稼ぎ労働者も含まれていた。

 外国における出稼ぎの例としては、イタリアやギリシアスペインからフランスやスイスへ、アイルランドからイギリスへ出かけて、春から冬にかけて農業や建設業などで働く出稼ぎ労働者(外国人労働者)が有名であった。

 1990年代以降、日本に出稼ぎにくる外国人労働者が増加しているが、この場合は季節的就労ではなく、数年にわたるケースが多い。フィリピン、タイ、パキスタンなどのアジア諸国では、1970年代以降、政府が支援して海外への出稼ぎを奨励してきた。出稼ぎ労働者の本国への送金はこれらの国にとって有力な外貨の獲得手段である。当初、石油価格の高騰で活況を呈した中東諸国への出稼ぎが主流を占めたが、1980年代に入ると石油価格の低迷・下落によって中東諸国での労働力需要が減退したため、おもな出稼ぎ先は日本に移った。1980年代末のバブル経済によって労働力不足が生じたこと、1990年代に円高が進んだことが、日本を目ざす外国人出稼ぎ労働者を増加させた。日本政府は、単純職種への外国人労働者の就労を入管法(出入国管理及び難民認定法)によって禁止しているため、正規の就労ビザを所有しないで就労している資格外就労の外国人労働者も多い。さらに、中南米(ブラジルやペルーなど)から日本にくる日系人の出稼ぎ労働者も増加している。日系人とその家族については、日本政府は職種を問わずその就労を認めている。資格外就労を含む外国人出稼ぎ労働者の数を正確に把握することは困難であるが、厚生労働省の推計では2006年の時点で約92万人に上っている。

[伍賀一道]

民俗

出稼ぎは近代産業が発達する以前から一般的に行われ、その歴史は古く、また出稼ぎの様相は各時代によって変容し、複雑化しているが、大別すれば副業的出稼ぎと専業的出稼ぎとに分けられる。

 副業的出稼ぎというのは、おもに農業を主業としながら農繁期以外に出稼ぎをするもので、これには冬場奉公人などといわれて冬季に都市の家事雑役に従事するたぐいと、職人や行商人として出稼ぎをするたぐいなどがある。冬場奉公人のたぐいは典型的な出稼ぎのあり方で、江戸時代の都市の発達による労働市場の拡大と相関して始まった。生産基盤の乏しい山村や雪国からの出稼ぎで、たとえば「丹波(たんば)百日」といい丹波から大坂周辺の船場(せんば)への百日奉公、江戸へ半期奉公に出た「信濃(しなの)者」、越後(えちご)からの米搗(つ)き、酒男などがあった。職人や行商人としての出稼ぎには杜氏(とうじ)、屋根屋、漆掻(か)き、薬売り、茶売りなど各種がある。杜氏は丹波や越後、屋根屋は会津が有名で、その技術は村人に伝統的に継承され、需要者とは継続した関係にある場合が多い。行商では富山・奈良・滋賀・香川・岡山の薬売り、新潟の毒消し売り、兵庫の但馬(たじま)地方の茶売りなどがある。以上の副業的出稼ぎは、労働機会が乏しい地方では家計維持の一般的方法として行われ、いずれも労働内容は主業とは異なる職種につくのが特色である。冬場奉公と職人・行商人とでは、後者のほうが出稼ぎ組織や収入面でより安定しており、なかには専業的出稼ぎへと転じている場合もある。副業的出稼ぎにはこれらのほかに、田植、代(しろ)掻き、茶摘み、養蚕、藺(い)草刈りといった農作業につく場合もある。土地によって各作業時期がすこしずつずれていることによっており、短期間に集中して行われる。たとえば茨城の鹿島(かしま)地方からは鹿島女といって女が近隣地方へ田植の出稼ぎに出かけ、香川からは岡山へ藺草刈りに多くの人が行くなど各地にみられる。

 専業的出稼ぎは、先述の職人や行商人がこれを主業にした場合や、林業、漁業にみられる。出稼ぎ期間は通年など長期の場合が多く、いわば主業を場所をかえながら行うという形である。たとえば漁業では、江戸時代の関西漁民の関東への進出、明治時代以降の北海漁場の開発、動力漁船による遠洋漁業などがこれにあたる。

[小川直之]

『『明治大正史世相篇』(『定本柳田国男集24』所収・1970・筑摩書房)』『草野比佐男著『村の女は眠れない』(1974・光和堂)』『嶋祐三著『出稼ぎと教育』(1974・民衆社)』『渡辺栄・羽田新著『出稼ぎ労働と農村の生活』(1977・東京大学出版会)』『山下雄三著『出稼ぎの社会学』(1978・国書刊行会)』『野添憲治著『出稼ぎ』新版(1978・三省堂)』『大川健嗣著『出稼ぎの経済学』精選復刻(紀伊國屋新書)』

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改訂新版 世界大百科事典 「出稼ぎ」の意味・わかりやすい解説

出稼ぎ (でかせぎ)

生活の本拠をおいている地域(居住地)を一時的・季節的に離れて,他の地域で一定の期間就労する形態をいい,その就労者を季節労働者という。一家の離村ではなく単身または世帯員の一部の者の移動であること,そして,就労先で得た収入は家計と密接な関係があること,なども出稼ぎの特徴である。現在,出稼ぎとは〈1ヵ月以上1年未満居住地を離れ他に雇われて就労するものであって,その就労期間経過後は居住地に帰るもの〉と考えることが多い。出稼ぎが生じてくる背景には,農山漁村においてその就労に季節性があるため一時的・季節的に過剰人口が発生すること,また小零細規模経営による収入だけでは家計を維持することができないことがある。しかも完全に離村する条件もなく,さらに居住地域内に適当な就労機会がないという状況が,出稼ぎを発生させることになる。

 出稼ぎは古くからみられその就労先や形態は多様であるが,第2次大戦前の日本では二つの典型があった。一つは建設業,遠洋漁業,山林労働,果樹農業,酒造業(杜氏(とうじ))などの主として季節的な出稼ぎである。東北・日本海側の単作地帯で多くみられ,農閑期の過剰労働力解消のための副業的出稼ぎである。薬売,茶売などの行商人もこれに類似している。もう一つは,紡績・製糸・織物工業などの農村からの出稼ぎ女工である。これは通年的出稼ぎの代表的なもので,結婚までの数年間を他の地域で就労することによって親元の家計費を軽減させると同時に,世帯の家計を補助した。出稼ぎ女工の出身地としては九州・東北(紡績),中部地方の山間部・日本海側(製糸)などが多かった(〈女工哀史〉の項参照)。男子の出稼ぎとして炭鉱や鉱山の鉱夫などもあった。戦前の出稼ぎには虚偽の労働条件の提供,強制労働,ピンはねなどの弊害がしばしばともなったが,戦後は職業安定法や労働基準法によってこれらの取締りがいっそう強化されることになった。

 戦後は農閑期を利用した土建業,製造業への季節的出稼ぎが中心である。農業における省力機械の普及,工業部門との所得・生活水準格差の拡大などが,在宅・通勤兼業の増加をもたらしたが,就労機会が乏しい地域では京浜地方を中心とする大都市工業地区,いわゆる太平洋ベルト地帯への出稼ぎ労働者が増加することになった。高度経済成長期の1960年代には,世帯主・跡とりや,経営規模の大きい農家からの出稼ぎが増加したこと,労働力不足基調のなかで大企業においても出稼ぎを積極的に採用することなどの新しい動きもみられ,出稼ぎが急増した。〈基幹的労働力の流出〉〈集落の解体〉〈家庭の崩壊〉などの側面から,出稼ぎが大きな社会問題となった。就労内容の多くは熟練を要しない職種で,季節工,臨時工などの不安定雇用で,危険な現場作業も多い。出稼ぎ労働者に対しては,労働省によって〈就労経路の正常化〉〈グループ就労の促進〉〈就労条件の改善・向上〉などの対策がとられている。高度経済成長から安定成長への転換のなかで,出稼ぎ労働者は減少してきている。労働力不足基調が緩和したこと,農山漁村にも以前に比べ就労機会が増加したことなどがその傾向の原因である。

 1960年以降の経済の高度成長期には激増した出稼ぎ者は,東北地方が中心であった。その主要な就労先は土建業であり,高速道路,新幹線,トンネル,万国博,地下鉄,ビルディングなどの建設が相次ぎ,土建業は好景気に沸いた。製造業への就労がこれに次いでいるが,このほうは土建業ほどの収入は期待できないにしても,給与体系が整備されているなど安定性があり,経済が低成長化するに従い,一転して出稼ぎが減少するなかで,製造業への志向が一段と強まっている。1972-73年の出稼ぎ最盛期には,出稼ぎ収入のほかに,帰郷時に雇用保険の支給があり,経済的には潤ったものの,反面,本人の就労時の事故や病気が増大し,そのうえ留守家族の欠損状態から深刻な家族問題や地域問題が生じた。農村地域への工場誘致などによって事態の改善が図られているが,抜本的な解決にはいたっていない。今後,かつて盛んだった酒造出稼ぎなどの技能出稼ぎに似た技能習得への志向が再び強まり,単純労働型の出稼ぎにとって代わる可能性もある。
外国人労働者
執筆者:

江戸時代の農民の出稼ぎには二つの場合があった。一つは,冬季積雪が多くて畑や山仕事ができない地方から,都市や宿場へ出て賃仕事に従事する場合である。たとえば越後の農民が,杜氏(酒造労働者)や湯屋の三助として冬季のみ各地に出かけたのは有名である。もう一つは,村が不作や水害などの災害に襲われて田畑の耕作が不可能になったとき,近隣の農家や,三都,城下町の武家や商家に下男として年季奉公する場合である。この場合は,そのまま奉公先に居ついて離村することもあるが,多くは給金を国元へ送金し経営の再建に努め,やがて経営が安定するか,もしくは本人が他所での就労に耐えられなくなった時点で帰村する。

 幕府は,初めのうちは出稼ぎを黙認していたが,18世紀中葉から関東地方農村の荒廃が進行し出稼ぎ農民の離村が増えるようになると,農村の労働力確保の観点から出稼ぎ制限の方向を打ち出した。1777年(安永6)には,出稼ぎ農民の所持する田畑が荒廃するのは不埒(ふらち)であるから,村方ではあらかじめ村高と人数を調べ,出稼ぎしても村にさしさわりのない範囲を確かめたうえで出稼ぎを許可し,万一限度をこえて出稼ぎしたため田畑が荒廃したら,本人はもちろん村役人も罰する,と触れている。さらに88年(天明8)には,天明の飢饉によって荒廃の著しい陸奥,常陸,下野の3国から江戸へ出稼ぎするときは,とくに願い出て代官・領主の添状(そえじよう)を得て,これを江戸の人宿(ひとやど)へ提出し,そこからさらに町奉行所へ差し出すようにせよと,厳しい規制を施した。また江戸居住の長期出稼人には旧里帰農令を出し,農具代を貸与して帰村・帰農を奨励している。ただし,この時期でも,冬季だけの出稼ぎは農業にさしさわりもないし,その間の給金は生計の足しになるので禁止するには及ばないとしている。天保改革の際にも,飢饉対策として人返し令を発し,江戸への長期出稼人に対し帰村を命じているが,このころよりしだいに農村人口も回復してきたので,出稼ぎに対する規制は減じていった。
執筆者:

かつての出稼ぎは,季節的なものが多かった。農村での田植や刈入れの農繁期に,周辺の漁村や山村の人々がこの作業に加わることは各地でみられた。漁村においても,季節的な定置網などの漁夫として集団で他村に出かけることも多かった。石川県白山山麓の山村では,嫁入前の娘たちが京都や大阪へ女中奉公や子守りとして数年間出稼ぎし,ここで結婚のための仕度金をつくり,行儀を見習う習慣があり,これをしないと一人前の娘とみなされなかった。

 出稼ぎ職人として有名なのは,会津,筑波,信州などの屋根葺き職人や杜氏,鍛冶屋,石屋,大工などである。杜氏は酒の醸造にたずさわる職人で,雪国や山国の冬期間の出稼ぎ者が多かった。〈百日男〉とも呼ばれ,これは酒蔵で100日間くらい働いて帰村するためである。灘の酒造地では,丹波杜氏,但馬杜氏,能登杜氏などが有名であり,広島では三原杜氏などが知られている。

 鍛冶屋のうち,鍬や鎌などの農具を作る野鍛冶には出職が多かった。彼らはそれぞれの縄張をもち,季節的に農村を回り,そこで農具を作ったり,修理をしたりした。村では,鍛冶屋のために鍛冶小屋を作り,農民も向槌(むこうづち)を打ってこれを手伝った。

 石屋には,土木建築の土台作りや石垣作り,石臼などを作る石工(いしく)と石像や鳥居などを作る彫刻工,石材採掘にたずさわる山石屋などの種別があったが,石工や山石屋には出職が多かった。とりわけ山石屋は,木地屋などと同様に漂泊的性格が強く,職業始祖神(職業神)にまつわる特許状をもつ場合がある。たとえば福井県の笏谷石(しやくだにいし)産地の山石屋たちは,継体(けいたい)天皇を石山開発の祖とし,天皇から石材採掘免許状を賜ったと伝え,笏谷石の採掘権は明治維新まで彼らが独占したという。

 大工,とりわけ親方大工の下で使役される下級大工には出稼ぎ大工が多かった。出稼ぎ大工のことをワタリとかサイギョウなどと呼び,越後や加賀,木曾あるいは瀬戸内海の島々,伊豆半島の西海岸,宮城県の気仙沼や山形県西田川郡の漁村からの者が多かった。彼らは親方大工と数人の仲間で組をつくり,盆や正月を除いて一年中出稼ぎに出ていた。信州あたりでは,このような出稼ぎ大工が村に来ても仕事のないときは,わらじ銭を大工に持たせて,次の村へ送るという風習があったという。その他,山地でかつて仕事に従事していた木地屋や漆搔(うるしかき),杣人(そまびと)などにも出稼ぎ形態が多くみられた。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「出稼ぎ」の意味・わかりやすい解説

出稼ぎ
でかせぎ
migrant labour

生活の本拠地 (常住地) を離れた地域で一定期間就業したのち,その所得を本拠地にもち帰る労働形態,またはその労働者。本拠地で就労機会が制約されるために生じた余剰労働力が,家計維持のため労働需要地に向うことによって出稼ぎは成立する。東北各地からの冬季酒造出稼ぎなど,農・漁閑期を利用した出稼ぎは,古くから行われてきた。果実採取,茶摘みなど農産品の収穫作業に従事する農業季節出稼ぎは,出稼ぎの代表的なものである。近年では農閑期を利用した補助的なものではなく,基幹労働力が長期的に大都市の土木,清掃などの単純労働に従事する型が多い。これらは,残された留守家族における教育,家庭生活の破壊など深刻な問題を生んでいる。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「出稼ぎ」の解説

出稼ぎ
でかせぎ

生活の本拠地を一時的に離れ,他地域に一定期間とどまり主として賃稼ぎに従事する労働形態。専業的出稼ぎと季節的副業的出稼ぎがある。前者には薬売りや呉服・海産物の行商人のほか,江戸初期に関東に出漁した上方漁民や日本海沿岸に進出した山陰のソリコなどの漁民があり,生活は漂泊的でもあった。後者には,独特の技術をもった杜氏(とうじ)・屋根葺・木挽(こびき)などの職人や,田植・代掻(しろかき)・稲刈・茶摘みなどの農仕事や都市の米搗(こめつ)きなどに出た農民がある。近代産業の成長にともなって第2次産業中心の出稼ぎに移行し,労働内容が単純化するにつれ旧来の出稼ぎ慣行は減少した。

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百科事典マイペディア 「出稼ぎ」の意味・わかりやすい解説

出稼ぎ【でかせぎ】

居住地を一定期間だけ離れ就労すること。日本の場合は多く農漁村から大都市や企業中心地域へ出て行き就労することをさし,長く日本の労働問題,社会問題の特質とされた。農漁村における季節による労働の繁閑,都市における単純労働者の必要性が背景にあり,都市での労働の多くは季節労働,不安定雇用である。農村では米作主体の農業から多様化が進み,漁村でも栽培漁業へと変わりつつあり,農閑期出稼ぎの労働形態は減少している。
→関連項目季節労働

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