梅津・何応欽協定(読み)うめづかおうきんきょうてい

百科事典マイペディア 「梅津・何応欽協定」の意味・わかりやすい解説

梅津・何応欽協定【うめづかおうきんきょうてい】

1935年6月華北駐屯軍司令官梅津美治郎〔1882-1949〕と中国国民政府軍事委員会北平(ペイピン)分会代理委員長の何応欽との間の協定。河北省内中国軍の撤退,国民党機関の閉鎖,排日活動禁止の3項を中国に押しつけ,日本の華北支配は強まった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「梅津・何応欽協定」の解説

梅津・何応欽協定
うめづ・かおうきんきょうてい

1935年(昭和10)6月10日,支那駐屯軍(天津軍)司令官梅津美治郎と国民政府北平(ペイピン)(北京)軍事委員分会委員長何応欽との間で締結された協定。国民党系機関や軍隊の河北省外への撤退,反日的人物罷免,排日禁止などを内容とする。天津軍は同年5月の天津の親日新聞社長ら暗殺事件を契機に華北分離を策し,最後通牒をもって日本側の要求を承認させたもの。この協定で河北省全域からの国民政府勢力の一掃を実現した。

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世界大百科事典(旧版)内の梅津・何応欽協定の言及

【梅津美治郎】より

…第1次世界大戦直前のドイツ,大戦中のデンマーク,スイスなどに参謀本部部員として駐在。1935年支那駐屯軍司令官として日本の華北進出のてことなった梅津・何応欽協定を締結,翌36年の二・二六事件直後には陸軍次官に就任して粛軍と軍部の政治的進出を推し進めた。その後,第1軍司令官,関東軍総司令官などを経て,40年大将,44年に参謀総長となり,敗戦に伴い全権の一人として降伏文書に調印した。…

【何応欽】より

…中国国民党の知日派軍人の一人。貴州省出身。日本陸軍士官学校卒業。留学中に中国同盟会に加入し辛亥革命に参加した。国民政府委員,国民革命軍総司令部参謀長,国民党中央執行委員,軍政部長,参謀総長などを歴任。1935年華北の反日運動を押さえ,華北支配を固めようとする日本の意図に屈して妥協を図り,梅津(美治郎)=何応欽協定を締結した。また蔣介石の側近として反共工作を指導。44年陸軍総司令,48年国防部長,49年行政院長。…

【華北工作】より

… 1933年5月の塘沽(タンクー)停戦協定で日本軍は河北省北東部に非武装地帯を作らせ監視権を認めさせたが,これが華北工作の足がかりとなった。国民政府による中国統一を嫌う日本陸軍の支那駐屯軍は,35年6月には排日運動を理由に梅津・何応欽協定を強要し,国民党部,中央軍と東北系軍隊を河北省から撤退させた。察哈爾省でも関東軍が同様の処置をとらせた(土肥原・秦徳純協定)。…

※「梅津・何応欽協定」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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