正暦寺(読み)しようりやくじ

日本歴史地名大系 「正暦寺」の解説

正暦寺
しようりやくじ

[現在地名]奈良市菩提山町

菩提仙ぼだいせん川の渓流に沿う山中にある。菩提山竜華樹院と号し、菩提山真言宗本尊は国指定重要文化財の金銅薬師如来倚像(奈良時代)。明治以前は菩提山・菩提山寺ともよばれた。

〈大和・紀伊寺院神社大事典〉

〔草創と信円の再建〕

応永一六年(一四〇九)の菩提山正暦寺原記(大和志料)によれば、正暦三年(九九二)九条関白兼家の子の兼俊が建立、本尊には浄瑠璃薬師を祀り、竜樹菩薩、脇侍の日光・月光、十二神将を安置した。四月八日の竜華会参加の坊舎八六坊、僧侶六〇人を数え、寺領は二千貫文。保安三年(一一二二)関白藤原忠通の申請によって鳥羽天皇の御悩平癒を薬師仏に祈って効験あり、康治元年(一一四二)九条忠通も室生むろう(現奈良県室生村)参詣のおり菩提山に立寄っている(「正暦寺原記」大和志料)。治承四年(一一八〇)一二月、平重衡の南都焼討の際兵火にかかり炎上。建保六年(一二一八)関白九条兼実の子で興福寺別当の一乗院・大乗院両法務に任ぜられた信円が再建し、彼を中興開基となす。以後代々興福寺の別院となり、寺僧は奈良春日社に一〇〇日の参籠をして読経する習わしであったという。当寺は南都における藤原北家の氏寺的存在であったが、一二世紀に官寺的性格をもっていた興福寺が藤原北家の氏寺として再認識されることで、同寺の別院として末寺化されたと考えられる。

〔門跡正願院〕

信円は正暦寺の再建に際し、まず別院正願しようがん院を造営。「大乗院寺院雑事記」文明一〇年(一四七八)六月二六日条には、正願院の本尊弥勒菩薩について「此本尊ハ一山根本之仏也、其故ハ、本願大僧正当山(菩提山)被開之時、正願院御堂・中門・奈良大門被建之、次薬師堂塔、真言堂以下者、至後代次第々々ニ造立了、然之間根本者正願院御堂也」と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の正暦寺の言及

【清酒】より

…15世紀末になると,3度にわけて仕込む三段仕込法が奈良興福寺の塔頭(たつちゆう)多聞院で行われ,さらに16世紀後期には同寺で酒の保存性をよくするための加熱殺菌法を行っている。一方,これまで原料米は蒸米用のみ精白米,こうじ用には粗白米が使われていたが,現在の奈良市にある菩提山正暦寺では,16世紀末に蒸米とこうじの両方に精白米を使った酒造を初めて行い,南都諸白(なんともろはく)と通称された同寺の酒〈菩提泉(ぼたいせん)〉は天野酒を圧倒した。また菩提泉は乳酸発酵を利用した菩提酛(ぼだいもと)という酒母製造法を開発し,その技法はのちの生酛(きもと)のなかに受け継がれた。…

【大安寺】より

…十一面観音菩薩像(重要文化財)をはじめとする8世紀後半から9世紀初頭にかけての一群の木造尊像が残存し,なかでも千手観音(伝馬頭観音),楊柳観音菩薩像(いずれも重要文化財)などは初期密教彫像として貴重である。なお《大安寺伽藍縁起幷流記資財帳》(重要文化財)は,奈良市菩提山町の正暦(しようりやく)寺に伝えられている。【宮本 長二郎】。…

※「正暦寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」