洋服屋(読み)ようふくや

改訂新版 世界大百科事典 「洋服屋」の意味・わかりやすい解説

洋服屋 (ようふくや)

洋服の仕立てや販売を行う店のこと。日本の洋服業は,幕末の開港後の横浜で来航西洋人によって開かれた。1867年(慶応3)に,テーラー(男子洋服仕立業)の〈ラダーゲ=オエルケ商会〉(ドイツ),〈ロートムンド商会〉(ドイツ),ドレスメーカー(婦人洋服仕立業)の〈ミセス・ピアソン〉(イギリス)が開業した。これらに入店して技術を習得した増田文吉,関清吉らの洋服屋開業は明治初年であった。彼らの店は舶来屋と呼ばれた。足袋職の沢野辰五郎はアメリカの宣教師S.R.ブラウン夫人に雇われ,同家の裁縫をするうちに技術を習得し,68年(明治1)ころ最初の婦人服屋を開業した。婦人服業には,このような入り仕事出身が多い。70年に開業の〈ミセス・デービス〉に入店した片山喜三郎らは,72年ころ独立開業した。男女子服業とも男性で,その前身は足袋職,和服仕立職が多く,徒弟制職人社会を形成した。明治中期の鹿鳴館を中心とする洋装は,東京の日本人業者によるものが多くなった。唯一の女性業者青木たけは銀座2丁目の店〈伊勢幸〉で,貴族の舞踏衣装を縫って繁盛した。このころの婦人洋服店は,女唐服屋(めとうふくや)と呼ばれた。洋服着用がさらに伸張した明治後期には,横浜には〈レン,クロフォード商会〉(イギリス),〈ローマン商会〉(ドイツ)の二大テーラーが店を構え,〈マダム・ロネ〉は宮中服を調製し,中国人業者〈雲記〉は70余名の優秀な職人をかかえる最大店であった。日本人業者も富裕な生活を築き,洋裁職人の日給は職人中最高を占めた。このような横浜業界の繁栄も,1923年の関東大震災で壊滅,西洋人は帰国し,中国人も減少し,代わって東京銀座が中心地となった。昭和に入ると洋裁学校出身者が進出し,洋装業は女性の職業となったが零細化する。第2次世界大戦後は衣料品産業の発展で既製服が増え,注文による洋服を縫製する洋服屋は減少した。
洋服
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