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既製服 きせいふく

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

既製服
きせいふく

不特定多数の消費者を対象として,多量に見込み生産される衣服の総称。フランス語では,比較的高級な品をプレタポルテ,機械による安価なものをコンフェクシオン confectionと呼んで区別している。

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百科事典マイペディアの解説

既製服【きせいふく】

オーダー・メード(注文服)に対してレディー・メードとも。工場で量産されるため安価である。日本では第2次大戦後急速に発達し品質も向上,背広服,学生服,作業服にはJIS規格が定められ,婦人服も色,柄,サイズとも豊富になった。

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世界大百科事典 第2版の解説

きせいふく【既製服】

体型に応じて各種の規格寸法をそろえ,すぐ着られるよう工業生産される衣服の総称。特定客へのデザインとか新作発表がおもなオート・クチュールや,客の意向や体型に合わせて仕立てる一般洋裁店,テーラーの注文服とは明確に区別される。 19世紀半ばにミシンが発明されるまでは,衣服は注文生産か家庭での製作に限られていた。既製服の先進国はアメリカで,レディ・メードクロージングready made clothingまたはレディ・トゥ・ウェアready to wearと呼び,外套のように比較的寸法や体型にとらわれぬ分野は,男性物が1830年代,女性物が1840年代に登場した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

既製服
きせいふく

できあいの衣服の総称で、一般にはできあいの洋服をさす。レディー・トゥー・ウエアready-to-wear、レディーメイド・クローズready-made clothesに相当する。[辻ますみ]

沿革

既製服が成立するためには、いくつかの社会的背景が必要である。まず大量の需要があること、身分や階級によって使用できる素材や衣服形態が制限された服装制度が崩壊していること、素材を供給する繊維産業が発達していること、服装が単純化していること、などがあげられる。
 日本に既製服が現れるのは明治時代であるが、既製服が飛躍的に増加して産業として成長するのは、前述の条件がそろった昭和30年代から40年代のことであり、とくに洋装化に伴って既製服化が進められてきた点に特徴がある。
 明治政府は近代国家の体制をいち早く整えるために、まず服装のうえで軍服や公官吏服に洋服を採用して、一般への浸透を図った。軍服や制服に使用された羅紗(らしゃ)は、舶来品で高価であったから古服の需要が多く、それを取り扱う業者が東京や大阪にあった。1877年(明治10)の西南戦争では軍服が増産され、戦争後はそれが払下げになったために、古服が大量に出回り、大阪では大阪鎮台のあった谷町、東京では東京鎮台前の九段下、のちには柳原に払下げ屋が集まった。彼らは古服を修理改造して売る場合もあり、そのなかから既製服業者が生まれていった。羅紗の既製品が東京に初めて現れたのは、81年ごろのことで、とんび(鳶)やズボンなどであった。大阪でも87年ごろからもじり(捩り)、アツシ(厚司)、マントなどが製造販売されている。これらの商品は、古着屋の天井近くにぶら下げて売られたところから「つるし」「ぶら下がり」などとよばれ、この蔑称(べっしょう)が与える安物、粗悪品というイメージが、その後長く既製服に結び付いていった。日露戦争(1904~05)後は古服の売れ行きが悪くなり、払下げ屋は製造卸業者や小売業者へと変わって既製服を扱った。羅紗製品のほかにワイシャツも既製化が早く、1877年前後から専門業者が現れている。
 大正時代には洋服を採用した女子学生服や、オーバー類の既製服化が進み、関東大震災後はとくに子供服の洋装化が推進されたために、既製品の生産量は伸びたが、いずれも実用衣料の範囲にとどまった。しかも一般女性の洋装化は遅々として進まず、洋服の定着には、戦争―敗戦という生活の大変換期を待たねばならなかった。
 したがって婦人既製服が増加し始めるのは、昭和30年代後半であり、流通革命による衣料品の大量販売や、所得の増大による消費革命によって、既製衣料は速やかに普及していった。さらにフランスから導入されたプレタポルテは、従来の既製品にあった粗悪品のイメージを一新し、海外との技術提携は製品のレベルを高め、多様な衣生活を楽しめる時代になった。[辻ますみ]

既製服産業

既製服産業が最初に発展したのはアメリカであるが、19世紀中ごろのミシンの開発と、南北戦争(1861~65)による軍服生産がその契機となった。さらにサイズの豊富な型紙の発明、スタイルの簡略化、需要の拡大というアメリカ独特の事情が、婦人服の既製服化を容易にし、質のよい移民の縫製労働者に支えられて、20世紀初頭には、ニューヨークは衣料産業の中心となっていた。もともと紡績と織布を一貫生産する紡織メーカーが存在し、その後、強力な資本をバックに、染色や縫製などの加工段階を統合して業界が整備された結果、一時不振だった業界も、1960年からふたたび活気を取り戻してきている。
 日本の繊維産業は、原糸メーカーや紡績業が中心となって発展してきており、明治以来、近代資本主義経済を支える基幹産業でもあった。それに対して、織布や染色や縫製などの加工段階にある二次メーカーは軽視され、しかも流通経路が複雑で、問屋がいくつも介在していたために、中小零細業者が多かった。昭和30年代後半から始まる既製服の大量需要に対して、業界のリーダーとなったのは合繊メーカーであり、販売経路は百貨店が大部分を占めていた。高度経済成長がもたらした、消費に対する意識変化と、大量な衣料品の出回りにより、この時期に必要衣料は行き渡ったと考えられる。
 これに対して、合繊メーカーの不況と対照的に、既製服メーカーが急成長する昭和40年代後半からは、既製服に対して新たな需要が高まった時期としてとらえられる。マーケティングを重視し、量から質への消費者意識の変化を読み取って商品に反映させたこと、小売りルートに専門店を中心とした販売方法をとったことなどが、成功につながったといわれる。代表的なある大手メーカーの売上額の推移をみると、1963年(昭和38)が132億円、74年1084億円、80年2058億円と飛躍的な伸びを示している。こうして長い間繊維中心であった業界も、二次製品重視の方向をとり、商社も金融面のみではなく、原料から製造小売りまでの段階を組織するオルガナイザーとして参画してきている。76年末の通産省繊維工業審議会では、今後の日本の繊維産業の指針として、消費者指向の明確化とアパレル産業の重視が提言されており、そのための業界組織の再検討があげられている。アパレルapparelとは衣服の意味で、このとき公式に使用されてから普及した語である。アパレル業界の規模としては、80年度の工業統計を参考にすると、従業者数9人以下の製造業者が約70%を占めており、小規模なメーカーが多いことを示しているが、これは多品種少量生産を目的とする婦人服メーカーに共通した現状であり、商品作りの失敗による倒産も相次いでいる。
 既製服化率が最大に達し、輸入衣料も増加した現在、的を絞った商品企画と効率的な販売政策の展開が必要とされ、情報を集約したファッション産業への発展と、国際市場への進出が期待されている。[辻ますみ]
『中込省三著『日本の衣服産業』(1975・東洋経済新報社) ▽富沢このみ著『アパレル産業』(1980・東洋経済新報社)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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