できあいの衣服の総称で、一般にはできあいの洋服をさす。レディー・トゥー・ウエアready-to-wear、レディーメイド・クローズready-made clothesに相当する。
[辻ますみ]
既製服が成立するためには、いくつかの社会的背景が必要である。まず大量の需要があること、身分や階級によって使用できる素材や衣服形態が制限された服装制度が崩壊していること、素材を供給する繊維産業が発達していること、服装が単純化していること、などがあげられる。
日本に既製服が現れるのは明治時代であるが、既製服が飛躍的に増加して産業として成長するのは、前述の条件がそろった昭和30年代から40年代のことであり、とくに洋装化に伴って既製服化が進められてきた点に特徴がある。
明治政府は近代国家の体制をいち早く整えるために、まず服装のうえで軍服や公官吏服に洋服を採用して、一般への浸透を図った。軍服や制服に使用された羅紗(らしゃ)は、舶来品で高価であったから古服の需要が多く、それを取り扱う業者が東京や大阪にあった。1877年(明治10)の西南戦争では軍服が増産され、戦争後はそれが払下げになったために、古服が大量に出回り、大阪では大阪鎮台のあった谷町、東京では東京鎮台前の九段下、のちには柳原に払下げ屋が集まった。彼らは古服を修理改造して売る場合もあり、そのなかから既製服業者が生まれていった。羅紗の既製品が東京に初めて現れたのは、81年ごろのことで、とんび(鳶)やズボンなどであった。大阪でも87年ごろからもじり(捩り)、アツシ(厚司)、マントなどが製造販売されている。これらの商品は、古着屋の天井近くにぶら下げて売られたところから「つるし」「ぶら下がり」などとよばれ、この蔑称(べっしょう)が与える安物、粗悪品というイメージが、その後長く既製服に結び付いていった。日露戦争(1904~05)後は古服の売れ行きが悪くなり、払下げ屋は製造卸業者や小売業者へと変わって既製服を扱った。羅紗製品のほかにワイシャツも既製化が早く、1877年前後から専門業者が現れている。
大正時代には洋服を採用した女子学生服や、オーバー類の既製服化が進み、関東大震災後はとくに子供服の洋装化が推進されたために、既製品の生産量は伸びたが、いずれも実用衣料の範囲にとどまった。しかも一般女性の洋装化は遅々として進まず、洋服の定着には、戦争―敗戦という生活の大変換期を待たねばならなかった。
したがって婦人既製服が増加し始めるのは、昭和30年代後半であり、流通革命による衣料品の大量販売や、所得の増大による消費革命によって、既製衣料は速やかに普及していった。さらにフランスから導入されたプレタポルテは、従来の既製品にあった粗悪品のイメージを一新し、海外との技術提携は製品のレベルを高め、多様な衣生活を楽しめる時代になった。
[辻ますみ]
既製服産業が最初に発展したのはアメリカであるが、19世紀中ごろのミシンの開発と、南北戦争(1861~65)による軍服生産がその契機となった。さらにサイズの豊富な型紙の発明、スタイルの簡略化、需要の拡大というアメリカ独特の事情が、婦人服の既製服化を容易にし、質のよい移民の縫製労働者に支えられて、20世紀初頭には、ニューヨークは衣料産業の中心となっていた。もともと紡績と織布を一貫生産する紡織メーカーが存在し、その後、強力な資本をバックに、染色や縫製などの加工段階を統合して業界が整備された結果、一時不振だった業界も、1960年からふたたび活気を取り戻してきている。
日本の繊維産業は、原糸メーカーや紡績業が中心となって発展してきており、明治以来、近代資本主義経済を支える基幹産業でもあった。それに対して、織布や染色や縫製などの加工段階にある二次メーカーは軽視され、しかも流通経路が複雑で、問屋がいくつも介在していたために、中小零細業者が多かった。昭和30年代後半から始まる既製服の大量需要に対して、業界のリーダーとなったのは合繊メーカーであり、販売経路は百貨店が大部分を占めていた。高度経済成長がもたらした、消費に対する意識変化と、大量な衣料品の出回りにより、この時期に必要衣料は行き渡ったと考えられる。
これに対して、合繊メーカーの不況と対照的に、既製服メーカーが急成長する昭和40年代後半からは、既製服に対して新たな需要が高まった時期としてとらえられる。マーケティングを重視し、量から質への消費者意識の変化を読み取って商品に反映させたこと、小売りルートに専門店を中心とした販売方法をとったことなどが、成功につながったといわれる。代表的なある大手メーカーの売上額の推移をみると、1963年(昭和38)が132億円、74年1084億円、80年2058億円と飛躍的な伸びを示している。こうして長い間繊維中心であった業界も、二次製品重視の方向をとり、商社も金融面のみではなく、原料から製造小売りまでの段階を組織するオルガナイザーとして参画してきている。76年末の通産省繊維工業審議会では、今後の日本の繊維産業の指針として、消費者指向の明確化とアパレル産業の重視が提言されており、そのための業界組織の再検討があげられている。アパレルapparelとは衣服の意味で、このとき公式に使用されてから普及した語である。アパレル業界の規模としては、80年度の工業統計を参考にすると、従業者数9人以下の製造業者が約70%を占めており、小規模なメーカーが多いことを示しているが、これは多品種少量生産を目的とする婦人服メーカーに共通した現状であり、商品作りの失敗による倒産も相次いでいる。
既製服化率が最大に達し、輸入衣料も増加した現在、的を絞った商品企画と効率的な販売政策の展開が必要とされ、情報を集約したファッション産業への発展と、国際市場への進出が期待されている。
[辻ますみ]
『中込省三著『日本の衣服産業』(1975・東洋経済新報社)』▽『富沢このみ著『アパレル産業』(1980・東洋経済新報社)』
体型に応じて各種の規格寸法をそろえ,すぐ着られるよう工業生産される衣服の総称。特定客へのデザインとか新作発表がおもなオート・クチュールや,客の意向や体型に合わせて仕立てる一般洋裁店,テーラーの注文服とは明確に区別される。
19世紀半ばにミシンが発明されるまでは,衣服は注文生産か家庭での製作に限られていた。既製服の先進国はアメリカで,レディ・メード・クロージングready made clothingまたはレディ・トゥ・ウェアready to wearと呼び,外套のように比較的寸法や体型にとらわれぬ分野は,男性物が1830年代,女性物が1840年代に登場した。合理性を重視する国民性に加えて,家庭洋裁よりも仕事から得る収入で衣料を買う女性の多い独特な社会背景が既製服化率の急速な進展を呼び,現在は全衣料品需要の95%以上を占め,国の主要産業となっている。優れた大学専門課程などもあって,機能的なアメリカン・スタイル,ニューヨーク・ファッションは国際的評価が高い。フランスの場合,第2次大戦以前にもコンフェクシヨン・トゥ・フェconfection tout fait(女),ベートマン・トゥ・フェvêtement tout fait(男)と呼ぶ既製服が生産されていたが,おしゃれ意識の高いパリなどでは比較的買いやすいプチ・クチュール(小さな洋裁店)でオート・クチュール風の服をあつらえる人が多かった。しかし1950年代に入ると,オート・クチュールが作品の大衆化をはかってプレタポルテprêt-à-porter(〈着る用意ができた〉の意)の生産を始めたため,既製服化率は急上昇し,現在は全体の90%をこえる。また,プレタポルテを専業とするデザイナーが輩出,毎年2回開くコレクション(シーズン前の発表会)は,伝統的なオート・クチュールの発表以上に国際的関心が寄せられている。イタリアの既製服も独特な配色,柄,ニット素材の活用で人気が高く,ミラノ・コレクションはパリ・コレクションとともにヨーロッパを代表し,ニューヨーク・コレクションのアメリカとたえず対比される。
日本でも現在,既製服化率は欧米先進国に劣らず95%以上の高率を占め,既製服産業は第2次大戦後著しい発展をみせた。洋装の導入は幕末(1850-60年代)に始まり,当初は外国船から買った中古服を軍用服などに改造していた。維新後の1870年に陸海軍の制服がきまり,〈舶来屋〉と呼ばれる一ツ物師(ひとつものし)が高級官吏の御用服を,数物師(かずものし)が一般官吏の制服(警察,郵便,鉄道など)を注文縫製した。やがて技術を習得した舶来仕立職と名乗る洋服職人があらわれ,1872年皇室服制が洋装の大礼服,通常礼服に定められたことからしだいに受注が増加し,81年には女唐服屋(めとうふくや)といわれた婦人服専門の職人も登場している。初期の既製服は軍隊,官員,日赤看護婦,女学生などの制服がほとんどで,その後,子ども服,学生服のほか背広服,婦人服,コート類も作ったが,成人の服は〈つるしんぼう〉の異名がつくほど粗悪だった。第2次大戦以前の既製服で愛用されたのは,1923年の関東大震災以後に登場したアッパッパと呼ばれた夏の婦人用家庭着ぐらいである。敗戦後アメリカからの救援物資で欧米諸国の既製服に接して,機能性が重視されるようになり,また海外のモード情報やナイロン,ポリエステルなど新しい合成繊維の素材の出現が服装観を変えることとなった。さらに仮縫いを省き最終工程で寸法,体型を調整する半既製服のイージー・オーダーがあらわれ,1960年には百貨店がパリのプレタポルテを扱ったことで信頼を高め,既製服化は中高年齢層にも及んだ。以来,品質の向上,寸法の多様化,規格化などから生活着のみならず礼装,貸衣装などの既製服化もすすんでいる。
生産工程においても,約2年前から準備し,織物業界などと素材,柄,流行色,デザインの傾向を情報交換しながら企画検討を行う。さらに商品化計画,販売促進などの活動とともに価格,生産数を調整し,生産に入る。デザイン→パターン・メーク(型紙製作)→グレーディング(型紙の寸法操作)→自社または下請工場での縫製・仕上げ加工→検品を経て出荷となるが,1962年の立体裁断技術の導入以来,製作段階ではさまざまな高度な科学技術が利用されるようになっている。
→アパレル産業
執筆者:平石 芳和
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