明治前期に建てられた国際的社交機関の洋風建築物。1881年に着工され,83年7月に落成し,11月28日に盛大な開館式が行われた。イギリスの建築家J.コンドルの設計で,薩摩藩出身の元工部省営繕局勤務の伊集院兼常が主宰担当して建築に当たった。館名は,中井弘(号桜州)が《詩経》の鹿鳴詩〈鹿鳴キ,群臣嘉賓燕スルナリ〉にちなんで命名したという。幕末に締結した諸外国との条約が不平等であったため,井上馨は外務卿に就任すると,条約改正の実現には内外人の交誼友好が不可欠であると考え,政府も風俗や習慣をはじめあらゆる方面にわたって欧化の政策を進めていった。まず上流階層の欧化がはかられ,外国使臣と交歓する官設娯楽社交場として設けられたのが鹿鳴館である。東京日比谷練兵場のかたわら麴町内幸町山下門内に建築され,総工費18万円,煉瓦造り2階建てで,客室,食堂,奏楽室,喫煙室,玉突場,来賓物置場等があり,婦人化粧室は美麗を極め,楼上正面に舞踏室があってその両端には見物室と休息室があり,当時としては最も豪華な洋風建築物であった。初代館長には外務省御用掛の松平忠礼が就任し,開館式の招待状は1200余通が発送され,しかも従来の日本の習慣にはない夫妻招待という西洋の形をとった。以後,内外の外交官や上流人士が招かれ,園遊会,舞踏会,音楽会が催され,名流婦人による慈善市(バザー)も行われた。
政府高官や外国使臣などの舞踏会は連日のように開かれ,その様相は欧化政策の象徴となり,いわゆる鹿鳴館時代を現出させた。そうした風潮は,1887年4月20日に鹿鳴館ではなく伊藤博文首相の官邸で行われた仮装舞踏会で頂点に達した。この会には伊藤首相以下の貴顕高官が役者顔まけの扮装で出席し,そうしたいかにも皮相的な欧化熱は世人のひんしゅくをかった。すなわち,そのようにまでして外国使臣の歓心を得ようとしても,現実に井上外相が進めている条約改正案は,日本にとってはたいへん屈辱的な内容であったからである。そのため,民間からの反対はもちろんのこと,政府部内でも農商務相谷干城らの強硬な反対や勝海舟,ボアソナードらからも反対意見書が提出され,9月にはついに井上外相の辞任となった。井上の失脚により鹿鳴館時代は終りとなったが,屈辱的条約改正に反対する運動は地租軽減・言論集会の自由・外交の回復の三大スローガンを掲げて,全国的な広がりをみせていった。鹿鳴館は89年に第十五銀行に払い下げられ,90年11月より1933年まで華族会館として使用され,その後,日本徴兵保険会社に売却されて,日本徴兵保険,内国貯金銀行,日本不動産,浜松銀行支店等の事務所として使用され,41年3月に取りこわされた。
執筆者:佐藤 能丸
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明治初期の国際的社交場として建てられた洋館。東京府麹町(こうじまち)区内幸(うちさいわい)町山下門の元薩摩(さつま)藩装束(しょうぞく)屋敷跡(千代田区内幸(うちさいわい)町、帝国ホテルの隣地)にあった。1879年(明治12)外務卿(きょう)に就任して条約改正交渉に取り組んだ井上馨(いのうえかおる)は、伊藤博文(いとうひろぶみ)らとともに、制度・文物・習俗を欧風化して欧米諸国に日本の開化を認めさせ、交渉を促進しようとした。鹿鳴館はその一環として、上流社会の社交の欧化を図り、外国貴賓の接待・宿泊施設として建設されたものである。イギリス人コンドルの設計により1881年1月着工、ネオ・バロック様式を基調とした煉瓦(れんが)造り2階建ての本館と付属施設の総建坪1450平方メートル、総工費18万円をかけ、1883年7月竣工(しゅんこう)した。『詩経』の「小雅鹿鳴の詩」、迎賓接待の意から鹿鳴館と命名、11月28日に開館式を行った。華やかな園遊会、舞踏会、仮装会、婦人慈善会(バザー)が頻繁に開かれ、それらは欧化主義の風潮のシンボルとなり、いわゆる鹿鳴館時代を現出した。しかし急速な近代化のゆがみも集約されており、仮装舞踏会に典型的にみられる狂的で皮相な欧化熱は世のひんしゅくを買った。1887年井上が条約改正に失敗するや、欧化政策に対する批判も強くなり、鹿鳴館時代も終わった。建物は1890年華族会館に貸与、1894年に払い下げられ、1898年には名称も華族会館と変わった。さらに1933年(昭和8)以降、日本徴兵保険会社、内国貯金銀行などが使用し、1941年取り壊された。表門も第二次世界大戦中に戦災で焼失した。
[和田 守 2018年9月19日]
『井上馨侯伝記編纂会編『世外井上公伝3』(1934・内外書籍/復刻版・1968・原書房、2013・マツノ書店)』▽『霞会館編・刊『華族会館の百年』(1975)』▽『村松貞次郎著『日本近代建築の歴史』(1977・NHKブックス/岩波現代文庫)』▽『磯田光一著『鹿鳴館の系譜』(1983・文芸春秋/講談社文芸文庫)』▽『富田仁著『鹿鳴館』(1984・白水社)』
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明治前期の欧化政策を象徴する建造物。明治政府の御雇建築家コンドルの代表作として著名だが,創建時の姿形を伝える設計図面などの建築資料は少ない。条約改正交渉にあたった外務卿井上馨(かおる)の発案とされ,当初は東京倶楽部とセットになった外国人接客所として計画された。1881年(明治14)着工,83年11月28日開館。連夜のごとく夜会・舞踏会・バザーが催され,鹿鳴館時代とよばれる一時代を築いた。井上の失脚,反欧化主義の台頭にともないその存在意義は薄れ,90年に外務省から宮内省へ移管,94年には華族会館に払い下げられた。1940年(昭和15)まで現在の東京都千代田区内幸町1丁目,帝国ホテル南隣接地にあった。
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[日本]
日本にも神楽から佐賀県の面浮立(めんぶりゆう)などの民俗芸能にいたるまで,仮面,仮装の祭礼はあった。ヨーロッパの社交界の遊びとしてのファンシー・ドレス・ボールは,日本では鹿鳴館に始まり,1887年(明治20)4月,伊藤博文によって仮装舞踏会がここで開かれた。井上毅,大山巌,渋沢栄一といった明治の高官やその夫人たちが,歌舞伎風からアルルカンまで,和洋折衷の仮装をして踊ったといわれる。…
…代表作は工部大学校在職中の上野博物館(1881。震災で現存せず),鹿鳴館(1883),事務所開設後の三菱1号館(1894),三井俱楽部(1913)等。全作品を日本に作り,日本に没したこの建築家は,歌舞伎を好み,河鍋暁斎に師事して日本画を学ぶ日本芸術愛好家であった。…
…イギリスではジルバから〈ジャイブjive〉を生んだ。
[日本における社交ダンス]
日本には明治初期に社交ダンスが導入され,1883年(明治16)に鹿鳴館が建設されてから盛んになった。カドリーユ,メヌエット,ウィンナ・ワルツ等を数組の男女が一団となって踊り,上流階級の人たちが楽しんだ。…
※「鹿鳴館」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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