鹿鳴館(読み)ろくめいかん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

鹿鳴館
ろくめいかん

1883年外務卿井上馨提唱で,イギリス人建築家コンドルによって,旧薩摩藩上屋敷跡(東京都千代田区内幸町1丁目)に建てられた洋館。名称は詩経小雅に由来する。風俗習慣を欧化することによって,欧米諸国との条約改正を果たそうというのがねらいの一つでもあった。したがって鹿鳴館には首相伊藤博文をはじめ,政府の高官貴紳夫人令嬢を伴って訪れ,外国人を招待し,華やかな宴会舞踏会がしばしば開催された。しかし行き過ぎた欧化でスキャンダルが流されたり,卑屈な対外姿勢は世の指弾を受けることになり,やがて井上辞任(1887)と条約改正案中止とによって,欧化熱もしだいにさめ,1889年華族会館として払い下げられた。

鹿鳴館
ろくめいかん

戯曲。4幕。三島由紀夫作。 1956年 11月文学座創立 20周年記念公演として,松浦竹夫演出,杉村春子主演により第一生命ホールで初演。もと新橋の名妓伯爵夫人の朝子が,かつての恋人で自由党領袖の清原と,2人のなかに生れた子久雄の命を救おうとするが,伯爵の策によって久雄は父清原に殺される。明治中期,鹿鳴館の舞踏会を背景に,美しく聡明な朝子を波乱に富んだ筋と修辞豊かなせりふで描出し,公演は大成功した。のち水谷八重子によって新派でも上演されたほか,商業劇場のレパートリーにもなった。

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デジタル大辞泉の解説

ろくめい‐かん〔‐クワン〕【鹿鳴館】

東京の日比谷にあった明治時代の官設社交場。英国人コンドル設計で明治16年(1883)完成。外務卿井上馨(いのうえかおる)が、条約改正交渉のために企図し、内外上流階級の舞踏会などが開かれて欧化主義象徴となった。のち華族会館などになり、昭和16年(1941)取り壊された。

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百科事典マイペディアの解説

鹿鳴館【ろくめいかん】

外務卿井上馨による欧化政策の一環として,英人コンドルの設計で1881年着工,1883年落成した西洋館。現在の東京都内幸(うちさいわい)町にあった。外国貴賓接待と上流社会の社交場として園遊会,舞踏会などが行われ,いわゆる鹿鳴館時代を現出。条約改正の失敗などで1887年井上は辞職,鹿鳴館時代は終わった。建物は1890年華族会館となり,のち事務所などに使用され1941年取りこわされた。
→関連項目欧化主義社交ダンス

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とっさの日本語便利帳の解説

鹿鳴館

英国人コンドルの設計により、一八八三年、東京・日比谷に落成した、外国貴賓接待と上流階級社交を目的とした西洋館。煉瓦造り、二階建て、建坪約三二〇坪。二階のホールでは、外国使節、政府高官、華族らによる夜会や舞踏会が開催され、鹿鳴館時代とも呼ばれる、外相井上馨の欧化政策の象徴的存在となった。

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世界大百科事典 第2版の解説

ろくめいかん【鹿鳴館】

明治前期に建てられた国際的社交機関の洋風建築物。1881年に着工され,83年7月に落成し,11月28日に盛大な開館式が行われた。イギリスの建築家J.コンドルの設計で,薩摩藩出身の元工部省営繕局勤務の伊集院兼常主宰担当して建築に当たった。館名は,中井弘(号桜州)が《詩経》の鹿鳴詩〈鹿鳴キ,群臣嘉賓燕スルナリ〉にちなんで命名したという。幕末に締結した諸外国との条約が不平等であったため,井上馨は外務卿に就任すると,条約改正の実現には内外人の交誼友好が不可欠であると考え,政府も風俗や習慣をはじめあらゆる方面にわたって欧化の政策を進めていった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

鹿鳴館
ろくめいかん

明治初期の国際的社交場として建てられた洋館。東京府麹町(こうじまち)区内幸(うちさいわい)町山下門の元薩摩(さつま)藩装束(しょうぞく)屋敷跡(千代田区内幸(うちさいわい)町、帝国ホテルの隣地)にあった。1879年(明治12)外務卿(きょう)に就任して条約改正交渉に取り組んだ井上馨(いのうえかおる)は、伊藤博文(いとうひろぶみ)らとともに、制度・文物・習俗を欧風化して欧米諸国に日本の開化を認めさせ、交渉を促進しようとした。鹿鳴館はその一環として、上流社会の社交の欧化を図り、外国貴賓の接待・宿泊施設として建設されたものである。イギリス人コンドルの設計により1881年1月着工、ネオ・バロック様式を基調とした煉瓦(れんが)造り2階建ての本館と付属施設の総建坪1450平方メートル、総工費18万円をかけ、1883年7月竣工(しゅんこう)した。『詩経』の「小雅鹿鳴の詩」、迎賓接待の意から鹿鳴館と命名、11月28日に開館式を行った。華やかな園遊会、舞踏会、仮装会、婦人慈善会(バザー)が頻繁に開かれ、それらは欧化主義の風潮のシンボルとなり、いわゆる鹿鳴館時代を現出した。しかし急速な近代化のゆがみも集約されており、仮装舞踏会に典型的にみられる狂的で皮相な欧化熱は世のひんしゅくを買った。1887年井上が条約改正に失敗するや、欧化政策に対する批判も強くなり、鹿鳴館時代も終わった。建物は1890年華族会館に貸与、1894年に払い下げられ、1898年には名称も華族会館と変わった。さらに1933年(昭和8)以降、日本徴兵保険会社、内国貯金銀行などが使用し、1941年取り壊された。表門も第二次世界大戦中に戦災で焼失した。

[和田 守 2018年9月19日]

『井上馨侯伝記編纂会編『世外井上公伝3』(1934・内外書籍/復刻版・1968・原書房、2013・マツノ書店)』『霞会館編・刊『華族会館の百年』(1975)』『村松貞次郎著『日本近代建築の歴史』(1977・NHKブックス/岩波現代文庫)』『磯田光一著『鹿鳴館の系譜』(1983・文芸春秋/講談社文芸文庫)』『富田仁著『鹿鳴館』(1984・白水社)』


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精選版 日本国語大辞典の解説

ろくめい‐かん ‥クヮン【鹿鳴館】

(「詩経」の「小雅・鹿鳴」に基づき中井弘(桜洲)が命名) 明治初期の官設社交場。明治一六年(一八八三)東京市麹町区内山下町(東京都千代田区内幸町一丁目)にイギリス人コンドルの設計で完成。井上馨が外務卿となり、不平等条約の改正を図った欧化政策の一環で、外国貴賓の接待と上流社会の社交を目的とした園遊会・舞踏会を開催。のち華族会館となる。昭和二〇年(一九四五)戦災で焼失。
※東京日日新聞‐明治一六年(1883)一一月二八日「山下町の鹿鳴館は予て記せし如く愈々今廿八日に開館式を行はれ」

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旺文社日本史事典 三訂版の解説

鹿鳴館
ろくめいかん

明治前期,国際的社交機関として東京日比谷につくられた洋風建物
外務卿井上馨が条約改正促進のため風俗・習慣の欧化をはかり,イギリス人コンドルの設計で,1883年完成。レンガ造り2階建。内外の上流社会人による舞踏会・音楽会が開催され,欧化政策の先端をきったので,この時代を鹿鳴館時代と呼ぶ。のち華族会館となり,1940年取りこわされ,一部移設されていた表門も'45年の空襲で焼失した。

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世界大百科事典内の鹿鳴館の言及

【仮装舞踏会】より


[日本]
 日本にも神楽から佐賀県の面浮立(めんぶりゆう)などの民俗芸能にいたるまで,仮面,仮装の祭礼はあった。ヨーロッパの社交界の遊びとしてのファンシー・ドレス・ボールは,日本では鹿鳴館に始まり,1887年(明治20)4月,伊藤博文によって仮装舞踏会がここで開かれた。井上毅,大山巌,渋沢栄一といった明治の高官やその夫人たちが,歌舞伎風からアルルカンまで,和洋折衷の仮装をして踊ったといわれる。…

【コンドル】より

…代表作は工部大学校在職中の上野博物館(1881。震災で現存せず),鹿鳴館(1883),事務所開設後の三菱1号館(1894),三井俱楽部(1913)等。全作品を日本に作り,日本に没したこの建築家は,歌舞伎を好み,河鍋暁斎に師事して日本画を学ぶ日本芸術愛好家であった。…

【社交ダンス】より

…イギリスではジルバから〈ジャイブjive〉を生んだ。
[日本における社交ダンス]
 日本には明治初期に社交ダンスが導入され,1883年(明治16)に鹿鳴館が建設されてから盛んになった。カドリーユ,メヌエット,ウィンナ・ワルツ等を数組の男女が一団となって踊り,上流階級の人たちが楽しんだ。…

※「鹿鳴館」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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