西洋様式の衣服のこと。西洋服という語が明治初期に普及し、これを略して洋服と称した。日本人が初めて西洋様式の衣服を目にしたのは16世紀の南蛮服であるが、その影響は単に個々の服装品のうえに残されたにすぎず、実際の生活に西洋服そのものが取り入れられたのは明治以後のことである。近代国家の体制を早急に整えるために、まず西欧の衣服を採用する方針がとられ、明治政府はそれを制度化することで推進していった。以来100年余りをかけて、日本人の衣生活は洋装化の歴史をたどるが、和服が後退していった背景には、文化や生活様式や社会の大きな変化があったことはいうまでもない。
[辻ますみ]
通商条約が締結された幕末の開港地は、外国の商館が建ち並び、異国人たちの生活や服装を目の当たりに観察することができた。そのようすは橋本玉蘭斎編『横浜開港見聞誌』(1862)に詳しく、また1868年(明治1)に刊行された『西洋衣食住』では、西洋服が細部に至るまで図解された。機動性に富んだ西洋服をいち早く応用したのは武士で、筒袖(つつそで)に陣股引(ももひき)という洋式軍装が普及した。ちょんまげに羅紗(らしゃ)製の段袋(だんぶくろ)(西洋ズボン)をはき、レキション羽織をはおって刀を差すという風体であった。軍装にヨーロッパの軍服を採用した明治政府は、太政官(だじょうかん)の制服に洋服を採用し、72年には礼服をすべて洋服に定めた。また郵便夫や邏卒(らそつ)(巡査)や鉄道員にも洋服が制定され、その際に伴った制帽や靴などの付属品が、一般人の間にも速やかに普及し、和服に洋装小物をつけるという和洋混合の服装が初期には多かった。制服類は数量がまとまっていたところから既製服化が進み、軍服の払下げ品を扱う業者から既製服屋が生まれていった。上からの強制ではあったが、洋服が職業服として優れた機能をもっていたことから、男子服の洋装化は急速に進められた。
これに対して女性の洋装は、1884年の鹿鳴館(ろくめいかん)に出現するが、一部上層婦人に限られた社交服だった。86年に礼服が洋装に決定して、ヨーロッパの服装が取り入れられ、マント・ド・クール(大礼服)やローブ・デコルテ(中礼服)やローブ・モンタン(通常服)を着用した。これらの洋服を仕立てたのは、居留地に出入りしていた職人たちであり、婦人服の仕立屋は女唐服(めとうふく)屋とよばれた。生地(きじ)はすべて舶来品であったから、非常に高価なものになり、一般婦人の間では、わずかに女子師範の学生や教員に洋服がみられたのみである。
[辻ますみ]
鹿鳴館も数年で衰退し、国粋主義の風潮とともに洋装化の熱は冷め、女子学生も束髪にリボン、和服に靴という制服が定着していった。明治末期には、女性も銀行や百貨店や電話交換手や看護婦などの職業についたが、看護婦を除いて、いずれも和服に束髪というスタイルだった。
[辻ますみ]
第一次世界大戦の好況により工場の新設拡張が相次ぎ、サラリーマン層が増えて洋服が定着し始めた。とくに1923年(大正12)の関東大震災による影響は大きく、その後の都市改造がもたらした生活環境や風俗の変化により、町には洋服姿が増え、とくに子供服の洋装化が進んだ。不況による生活難から、女性がバス車掌やタイピストなどの職種に進出し、これら職業婦人が洋服を取り入れたことによって、初めて大衆化が進んだが、家庭にあっては和服中心の生活は崩れなかった。
[辻ますみ]
断髪にショートスカートのモダンガールが銀座に現れ、日本で初のスタイルブックが登場し、百貨店の女店員にも洋服が奨励された。さらに関西地方から普及してきた簡単服アッパッパは、直線裁ちのワンピースでだれにでもつくることができたから、夏向きの服として家庭婦人の間にまたたくまに広がった。しかしこうした洋装化の動きも、1931年(昭和6)の満州事変から、41年の太平洋戦争へと向かう戦時体制下での衣料統制の強化によって停滞し、40年にはカーキ色の詰襟の男子の国民服が、42年には女子の標準服が制定された。標準服には、一部式の洋服と、もんぺを伴う二部式の活動服があった。
[辻ますみ]
戦後になり、洋装化の歴史は急速に終結期に向かう。上層特権階級の解体、価値体系の急変、アメリカ文化への羨望(せんぼう)などが過去の生活様式を否定させ、戦後の混乱期が過ぎると、欧米化に向けて全エネルギーが傾けられた。遅々として進まなかった女性の洋装も、またたくまに定着し、洋裁ブームを迎えて、外国モードのコピーが町にあふれた。合繊の開発が進んだ昭和30年代後半からは既製服時代に入り、洋装衣料品が豊富に出回っていった。家計に占める被服費の割合の推移をみると、1963年(昭和38)がピークとなって、それ以後は下降しており、昭和30年代に家族の必要衣料がだいたいそろえられたと推定される。また被服費に占める洋服費の割合をみると、年々増加しており、和服費は洋服費の約3分の1に相当し、しかも1970年からは下降に向かっている。生地・糸類の低下は家庭洋裁の衰退を表しており、洋服費の増加は既製衣料の購入によるものと考えられる。高度経済成長による消費革命や大量販売の流通革命により、洋装のための基本衣料は、1965年までに老年層も含めて全国的に浸透したと考えられる。必要量が満たされたのちに求められるのは、質の高級化であり、衣生活はまた新しい段階を迎えたといえる。
[辻ますみ]
『遠藤武・石山彰著『日本洋装史』(1980・文化出版局)』▽『毎日新聞社編『一億人の昭和史 日本人 三代の女たち』上中下(1981・毎日新聞社)』▽『中込省三著『日本の衣服産業』(1975・東洋経済新報社)』
16世紀に初めて日欧交通を開いたポルトガル人,スペイン人の服装を南蛮服,江戸幕府の鎖国時代に長崎出島在留を許されたオランダ人の服装を紅毛服と呼び,開国後流入した近代西洋服装を洋服といい,和服に対して用いる。
1859年(安政6)に開港した幕府は,異国の筒袖着用を禁じ,見かけしだい召し捕らえると布告した。西洋の服装を着用した者は攘夷党からもねらわれ,64年(元治1),摂海砲台建設のために入京し,暗殺された佐久間象山も筒袖段袋(だんぶくろ)を着用していた。しかし,幕府,諸藩は洋式軍備に軍服を採用し,開港地にも洋服着用が目立ってきた。洋服という名称は,長崎済美館教授方柴田大介の《方庵日記》慶応3年(1867)4月10日の条に見え,維新後普及した。明治新政府は西洋文明を採り入れる大改革を行い,新制度の陸・海軍服,太政官制服,工部省・兵部省官員服,邏卒(らそつ)・郵便夫・鉄道員服を定めた。守旧派の反対を押し切って,1871年(明治4)に断髪・洋服・脱刀の自由を認め,翌年には新服制を発布して公服を洋服に変革した。洋服は開化服,和服は因循服といわれた。しかし,男性に奨励した断髪・洋服も女性の場合は非難された。ベル型のクリノリン・ドレスを華やかに着たのは,江戸時代以来のファッション・リーダーであった芸妓,遊女たちで,世間を驚かして宣伝効果をあげた。
男だけの文明開化を女性に及ぼしたのは,幕末に締結した不平等条約改正をはかる欧化政策である。明治政府は83年に国際社交場鹿鳴館を建設し,紳士淑女たちは華麗な舞踏会に洋装を競った。また,官員洋服,男女学生制服にと洋装熱をあおり,86年には宮廷婦人服を洋装化した。87年には洋服を奨励する皇后の思召書が出されたこともあって,後ろ腰を装飾したバッスル・スタイルが大流行した。しかし,極端な欧化は批判され,天下りによる流行はまもなく終りを告げた。日露戦争後の資本主義成熟期に再び洋風化が進み,流行の高衿(ハイ・カラー)から洋風をハイカラと呼ぶようになった。ハイカラなフロックコートと背広は上流社会のエリート服であり,裾広がりのゴアード・スカートから,アール・ヌーボーのS形スタイルへとパリの流行を追う蜂腰長裾ドレスは,貴族・ブルジョア婦人の社交服であった。一方,工場に働く男子労働者には労働服が定着した。婦人服もわずかながら看護婦,西洋料亭などの新職業に進出し,乗馬,自転車,海水浴,学校体育など新しい風俗が現れた。
第1次世界大戦を経て,欧米婦人服は短いスカートの筒型に変わった。日本でもこの機能的なスタイルを受け入れ,大正デモクラシーの服装改善運動の一環として洋服化が志向された。子どもの洋服は急速に普及し,1918年の山脇高等女学校制服は,女学生洋服化の端緒となり,女教員も洋装化をはかった。婦人之友社や日本服装改善会の尾崎芳太郎らが,啓蒙的普及活動を盛んに行った。このころ開通したバスには,制服姿の女子車掌がさっそうと登場して珍しがられた。23年の関東大震災後,災害時の和服の危険性を指摘する世論が高まり,大阪商人は安価な簡単服を売り出した。裾がパッと広がるところからアッパッパと呼ばれ,低所得層の夏着に流行した。また,東京銀座や大阪心斎橋の繁華街に,モダン・ボーイ(モボ),モダン・ガール(モガ)が現れた。モボのラッパズボン,断髪モガのショートスカートは,大衆時代の市民モードであった。
昭和初期,世界大恐慌のもとで,職業婦人が増加した。働く女性の多くは和服に上っ張りを着ていたが,1932年に起きた東京日本橋の白木屋百貨店の火災は和服姿の女子店員の犠牲者を多く出したところから洋装化の必要,下着の着用が強調された。このころから女子工員にも作業服が支給され,女学校制服も一般化して,若い女性に洋装が普及した。男子服装では,背広がサラリーマン服に定着した。41年の被服協会・服装調査によれば,和服に対して背広は70%,婦人洋服は夏50%,冬20%になった。和洋二重衣生活の不経済性が論議されながらも,男子は勤務に洋服,家では和服,女子は洋服を勤務や家庭に着用するというように,洋服は日本人の生活に浸透していった。第2次世界大戦の国民精神総動員体制にも機能的な洋服を排斥することはできず,国民服,婦人標準服の甲型と活動衣は洋服であった。戦後は生活様式の洋風化が一挙に進み,和服から洋服への変化は衣服革命といわれる。戦後の流行は47年にディオールのロングスカートが世界を風靡(ふうび)し,その後ミニ・スカート,パンタロン,ジーンズなど女性のズボン着用,男子服の色彩化などユニ・セックス,カジュアル化がはかられ,個性的多様化時代にいたった。化学繊維が発達して衣料が豊富になり,既製服の伸張とともに衣料産業が発展した。経済高度成長期を経て,洋服は高年層にも着用され,和服の占めていた礼装にも進出,洋服は完全に日本の服装となった。
→洋服屋
執筆者:中山 千代
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…68年(明治1),肩に錦切(きんぎれ)をつけて江戸へ向かった官軍の中には,赤熊(しやぐま),白熊(はぐま),黒熊(こぐま)と称してヤクの毛をかぶった者もある。諸藩士は開港地で売るラシャ(羅紗)地の中古洋服を求めて戦闘服とした。これが日本人の洋服を常用する始まりとなるが,商人用の衣服や階級にあわない軍服または和洋混合の着装の混乱状態を終わらせたのは,70年以降の勅令による軍服制定であった。…
※「洋服」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新