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洋服 ようふく

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

洋服
ようふく

西洋風の衣服の総称で和服対語。欧米で発達したものだが,現在では全世界に普及しているといってもよい。日本人の衣生活の洋式化は,文久1 (1861) 年幕府の講武所軍服が採用されたのに始り,明治3 (70) 年の軍服徽章の制定によって軍装として定着した。宮中では同5年洋服を礼服と定めた。同4年5月創刊の『新聞雑誌』に「東京市諸職人の内,当時尤も盛なるは,軍服,洋服の仕立屋なり」とある。男性の洋服は軍人のほか,警官,鉄道員,小学校の教員などの詰め襟が仕事着として普及,次第に折り襟の背広が和服に代って一般化した。女性の洋服は男性よりはるかに遅れ,大正末期から女学生の制服,勤労女性の仕事着の洋装化に伴って次第に普及し,第2次世界大戦後に一般化して今日にいたった。

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デジタル大辞泉の解説

よう‐ふく〔ヤウ‐〕【洋服】

《「西洋服」の》西洋風の衣服。背広・ズボン・ワンピース・スーツ・スカートなど。⇔和服

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世界大百科事典 第2版の解説

ようふく【洋服】

16世紀に初めて日欧交通を開いたポルトガル人,スペイン人の服装を南蛮服,江戸幕府の鎖国時代に長崎出島在留を許されたオランダ人の服装を紅毛服と呼び,開国後流入した近代西洋服装を洋服といい,和服に対して用いる。 1859年(安政6)に開港した幕府は,異国の筒袖着用を禁じ,見かけしだい召し捕らえると布告した。西洋の服装を着用した者は攘夷党からもねらわれ,64年(元治1),摂海砲台建設のために入京し,暗殺された佐久間象山も筒袖段袋(だんぶくろ)を着用していた。

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大辞林 第三版の解説

ようふく【洋服】

西洋で起こり発達した衣服。西洋風の衣服。現在、日本で常用されている、背広・ズボン・ブラウス・スカートなど。 ↔ 和服

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

洋服
ようふく

西洋様式の衣服のこと。西洋服という語が明治初期に普及し、これを略して洋服と称した。日本人が初めて西洋様式の衣服を目にしたのは16世紀の南蛮服であるが、その影響は単に個々の服装品のうえに残されたにすぎず、実際の生活に西洋服そのものが取り入れられたのは明治以後のことである。近代国家の体制を早急に整えるために、まず西欧の衣服を採用する方針がとられ、明治政府はそれを制度化することで推進していった。以来100年余りをかけて、日本人の衣生活は洋装化の歴史をたどるが、和服が後退していった背景には、文化や生活様式や社会の大きな変化があったことはいうまでもない。[辻ますみ]

明治前期

通商条約が締結された幕末の開港地は、外国の商館が建ち並び、異国人たちの生活や服装を目の当たりに観察することができた。そのようすは橋本玉蘭斎編『横浜開港見聞誌』(1862)に詳しく、また1868年(明治1)に刊行された『西洋衣食住』では、西洋服が細部に至るまで図解された。機動性に富んだ西洋服をいち早く応用したのは武士で、筒袖(つつそで)に陣股引(ももひき)という洋式軍装が普及した。ちょんまげに羅紗(らしゃ)製の段袋(だんぶくろ)(西洋ズボン)をはき、レキション羽織をはおって刀を差すという風体であった。軍装にヨーロッパの軍服を採用した明治政府は、太政官(だじょうかん)の制服に洋服を採用し、72年には礼服をすべて洋服に定めた。また郵便夫や邏卒(らそつ)(巡査)や鉄道員にも洋服が制定され、その際に伴った制帽や靴などの付属品が、一般人の間にも速やかに普及し、和服に洋装小物をつけるという和洋混合の服装が初期には多かった。制服類は数量がまとまっていたところから既製服化が進み、軍服の払下げ品を扱う業者から既製服屋が生まれていった。上からの強制ではあったが、洋服が職業服として優れた機能をもっていたことから、男子服の洋装化は急速に進められた。
 これに対して女性の洋装は、1884年の鹿鳴館(ろくめいかん)に出現するが、一部上層婦人に限られた社交服だった。86年に礼服が洋装に決定して、ヨーロッパの服装が取り入れられ、マント・ド・クール(大礼服)やローブ・デコルテ(中礼服)やローブ・モンタン(通常服)を着用した。これらの洋服を仕立てたのは、居留地に出入りしていた職人たちであり、婦人服の仕立屋は女唐服(めとうふく)屋とよばれた。生地(きじ)はすべて舶来品であったから、非常に高価なものになり、一般婦人の間では、わずかに女子師範の学生や教員に洋服がみられたのみである。[辻ますみ]

明治後期

鹿鳴館も数年で衰退し、国粋主義の風潮とともに洋装化の熱は冷め、女子学生も束髪にリボン、和服に靴という制服が定着していった。明治末期には、女性も銀行や百貨店や電話交換手や看護婦などの職業についたが、看護婦を除いて、いずれも和服に束髪というスタイルだった。[辻ますみ]

大正時代

第一次世界大戦の好況により工場の新設拡張が相次ぎ、サラリーマン層が増えて洋服が定着し始めた。とくに1923年(大正12)の関東大震災による影響は大きく、その後の都市改造がもたらした生活環境や風俗の変化により、町には洋服姿が増え、とくに子供服の洋装化が進んだ。不況による生活難から、女性がバス車掌やタイピストなどの職種に進出し、これら職業婦人が洋服を取り入れたことによって、初めて大衆化が進んだが、家庭にあっては和服中心の生活は崩れなかった。[辻ますみ]

昭和前半期

断髪にショートスカートのモダンガールが銀座に現れ、日本で初のスタイルブックが登場し、百貨店の女店員にも洋服が奨励された。さらに関西地方から普及してきた簡単服アッパッパは、直線裁ちのワンピースでだれにでもつくることができたから、夏向きの服として家庭婦人の間にまたたくまに広がった。しかしこうした洋装化の動きも、1931年(昭和6)の満州事変から、41年の太平洋戦争へと向かう戦時体制下での衣料統制の強化によって停滞し、40年にはカーキ色の詰襟の男子の国民服が、42年には女子の標準服が制定された。標準服には、一部式の洋服と、もんぺを伴う二部式の活動服があった。[辻ますみ]

第二次大戦後

戦後になり、洋装化の歴史は急速に終結期に向かう。上層特権階級の解体、価値体系の急変、アメリカ文化への羨望(せんぼう)などが過去の生活様式を否定させ、戦後の混乱期が過ぎると、欧米化に向けて全エネルギーが傾けられた。遅々として進まなかった女性の洋装も、またたくまに定着し、洋裁ブームを迎えて、外国モードのコピーが町にあふれた。合繊の開発が進んだ昭和30年代後半からは既製服時代に入り、洋装衣料品が豊富に出回っていった。家計に占める被服費の割合の推移をみると、1963年(昭和38)がピークとなって、それ以後は下降しており、昭和30年代に家族の必要衣料がだいたいそろえられたと推定される。また被服費に占める洋服費の割合をみると、年々増加しており、和服費は洋服費の約3分の1に相当し、しかも1970年からは下降に向かっている。生地・糸類の低下は家庭洋裁の衰退を表しており、洋服費の増加は既製衣料の購入によるものと考えられる。高度経済成長による消費革命や大量販売の流通革命により、洋装のための基本衣料は、1965年までに老年層も含めて全国的に浸透したと考えられる。必要量が満たされたのちに求められるのは、質の高級化であり、衣生活はまた新しい段階を迎えたといえる。[辻ますみ]
『遠藤武・石山彰著『日本洋装史』(1980・文化出版局) ▽毎日新聞社編『一億人の昭和史 日本人 三代の女たち』上中下(1981・毎日新聞社) ▽中込省三著『日本の衣服産業』(1975・東洋経済新報社)』

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世界大百科事典内の洋服の言及

【軍服】より

…68年(明治1),肩に錦切(きんぎれ)をつけて江戸へ向かった官軍の中には,赤熊(しやぐま),白熊(はぐま),黒熊(こぐま)と称してヤクの毛をかぶった者もある。諸藩士は開港地で売るラシャ(羅紗)地の中古洋服を求めて戦闘服とした。これが日本人の洋服を常用する始まりとなるが,商人用の衣服や階級にあわない軍服または和洋混合の着装の混乱状態を終わらせたのは,70年以降の勅令による軍服制定であった。…

※「洋服」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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