瀬川如皐(3世)(読み)せがわじょこう[さんせい]

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「瀬川如皐(3世)」の意味・わかりやすい解説

瀬川如皐(3世)
せがわじょこう[さんせい]

[生]文化3(1806)
[没]1881.6.28.
歌舞伎作者。5世鶴屋南北の門弟滝沢馬琴読本脚色した『青砥稿 (あおとぞうし) 』で有名となる。3世桜田治助のすすめで如皐襲名。小説,講談の脚色にすぐれ,お家物と世話物を得意としたが,晩年は「思ふほどいはで戻りし桜かな」の狂句を残すほど,河竹黙阿弥に押され不遇で終った。『東山桜荘子』 (通称佐倉宗吾』) ,『与話情浮名横櫛 (よわなさけうきなのよこぐし) 』 (通称『切られ与三』) などの名作がある。所作事では『勢獅子 (きおいじし) 』など。

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世界大百科事典(旧版)内の瀬川如皐(3世)の言及

【佐倉義民伝】より

…行く先々で,その土地出身者の功績や風習を語った彼らは,百姓一揆のさかんな土地で佐倉宗吾の伝記を語り,それが講談《佐倉義民伝》に形成されたと考えられる。この《佐倉義民伝》に取材した歌舞伎脚本《東山桜荘子(ひがしやまさくらそうし)》が3世瀬川如皐(じよこう)によって書かれ,1851年(嘉永4)8月江戸の中村座で初演されたことで,佐倉宗吾伝説は定着した。《佐倉義民伝》は,第2次世界大戦後の農民運動でももてはやされ,印旛沼の渡し守甚兵衛が鎖を切って宗吾を渡す《甚兵衛渡し》のくだりは多くの浪曲家によって手がけられている。…

【三遊亭円朝】より

…文久年間(1861‐64)から山々亭有人(ありんど)(条野採菊(さいぎく)。1832‐1901),仮名垣魯文などの戯作者,3世瀬川如皐(じよこう),2世河竹新七(河竹黙阿弥)などの狂言作者をはじめとする文人たちが〈粋狂連〉というグループをつくって三題噺を自作自演して流行させていたが,これに参加して落語の題材や演出法など多くのものを学んだ円朝は,落語界に新風を起こし,その地位を確立していった。1872年(明治5),新時勢にかんがみ,道具入り噺の道具を弟子円楽にゆずって3代三遊亭円生を襲名させ,みずからは扇子一本の素噺(すばなし)に転じた。…

【東山桜荘子】より

…通称《佐倉義民伝》《佐倉宗吾》。3世瀬川如皐作。1851年(嘉永4)8月江戸中村座初演。…

【与話情浮名横櫛】より

…9幕。3世瀬川如皐作。1853年(嘉永6)3月江戸中村座初演。…

【落語】より


[幕末の江戸落語]
 1842年(天保13)の改革策によって,寄席の数もそれ以前の120余軒から15軒に制限されて衰微した江戸落語界も,改革の中心人物水野忠邦の失脚によって制限が撤廃されるとしだいに復興し,人情噺,芝居噺が流行したが,さらに三題噺の復活から隆盛に向かった。〈粋狂連(すいきようれん)〉〈興笑連(きようしようれん)〉などの三題噺のグループが生まれ,狂言作者の瀬川如皐(じよこう),河竹新七(のちの河竹黙阿弥(もくあみ)),戯作者の山々亭有人(さんさんていありんど),仮名垣魯文(かながきろぶん),絵師の一恵斎芳幾(いつけいさいよしいく)などに,金座役人高野酔桜軒(すいおうけん),大伝馬町の豪商勝田某(春の舎(や)幾久)などをはじめとする江戸の文人や通人,落語家の初代春風亭柳枝(しゆんぷうていりゆうし),3代柳亭左楽(りゆうていさらく)(?‐1872),初代三遊亭円朝などが参加して,三題噺の自作自演に熱中した。このグループ活動を契機として,幕末から明治にかけての東京落語界の中心人物になる円朝が成長したことは意義深かった。…

※「瀬川如皐(3世)」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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