滝沢馬琴(読み)タキザワバキン

デジタル大辞泉 「滝沢馬琴」の意味・読み・例文・類語

たきざわ‐ばきん〔たきざは‐〕【滝沢馬琴】

曲亭馬琴きょくていばきん
杉本苑子長編歴史小説。昭和52年(1977)、上下2巻で刊行。曲亭馬琴の半生を描く。

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精選版 日本国語大辞典 「滝沢馬琴」の意味・読み・例文・類語

たきざわ‐ばきん【滝沢馬琴】

  1. 江戸後期戯作者。江戸の人。名は解(とく)。通称は瑣(左)吉。別号曲亭・著作堂主人・蓑笠漁隠など。山東京伝に師事し、はじめ黄表紙などを書くが、寛政八年(一七九六)の「高尾船字文」を始めとして読本を続々と著し、それを近世後期の小説の正統に位置させ、ひいては明治期にまで影響を及ぼすものとした。その作風は、中国白話小説に学んで、勧善懲悪を標榜しつつ、雄大な構想と豊かな伝奇性を備え、人情描写にも配慮した。長編の読本に力作が多く、「椿説弓張月」「三七全伝南柯夢」「近世説美少年録」「開巻驚奇侠客伝」「南総里見八犬伝」など。明和四~嘉永元年(一七六七‐一八四八

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朝日日本歴史人物事典 「滝沢馬琴」の解説

滝沢馬琴

没年:嘉永1.11.6(1848.12.1)
生年:明和4.6.9(1767.7.4)
江戸後期の読本・合巻作者。旗本松平信成の用人滝沢興義の5男。母もん。名は興邦,のち解。別号,曲亭,著作堂主人,蓑笠漁隠,玄同など。 馬琴の性格をひと口でいうと,まじめな努力家ということになろう。寛政2(1790)年,山東京伝に入門した若いころは,爛熟・頽廃の極に達していた江戸中・末期の世相に影響されて,柄にもない艶物種に手を染めたり,私生活面でも手っとりばやく経済的な安定を得ようとして下駄屋の入婿になり,家付き娘のお百と愛もない結婚をしたあげく,妻の無知につけこみ,本来なら入夫先の姓を名乗るべきところを滝沢姓のまま押し通し,はては作者に転業してしまうというような,不徳義なことをしてのけている。 しかし持って生まれた気性の堅苦しさ,雑学的な教養を誇示したがる性癖が妨げとなって黄表紙や草双子のたぐいでは成功せず,能力にもっとも合った読本の分野ではじめて名をなした。『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』などの刊行がそれである。 お百との結婚にしても,初めの動機は不純で「愚痴蒙昧な市井の愚婦」とののしり歎きながらも,一生涯そんな女房ひとりを守って浮気をせず遊所通いもせず,酒・賭博・芝居その他の遊びごとに溺れもせずに,趣味は読書。唯一の贅沢は安タバコをくゆらすだけ……。あとは終日机に向かって仕事をしつづけ,ほとんど筆一本で家計を支えていたのだから,まず模範的な家父長といえると思う。 滝沢家は,渡りお徒士の家系にすぎないのに,曲りなりにも武家の出だという意識が,町人出身の作家とくらべて,馬琴の強い誇りであり,考え方や言動根底となっていた。生粋の都会人でもあったから,無作法な隣家などからこうむる迷惑には敏感に反応し立腹する代わりに,他家に迷惑をおよぼすまいとする町住まいの潔癖さ,近所づきあいの義理は欠かさない。 馬琴の最大の不幸は,天保6(1835)年跡とりのひとり息子宗伯に先立たれたことだろう。妻も娘も嫁もひとしく「女子と小人は養いがたし」と見ていた馬琴にすれば,いくらかは学問もあり,父を尊敬し,助手を勤めてくれてもいた愛息の死は,大きな打撃であった。残された孫の養育までが老いの肩にのしかかったのだ。 もうひとつの不幸は,長年月に亘る酷使の結果,晩年に至って失明したことだった。幾人も代筆者を替えたが気に入らず,宗伯と死別したお路に文字を教えながら,嫁も舅も血のにじむ苦労の末に,天保13年『南総里見八犬伝』を完結させた。さすがにお路に対してだけは女性軽視の認識を改め,人を褒めない馬琴が『南総里見八犬伝』の末尾で,その努力を讃えている。 やはり晩年,親しく交際していた渡辺崋山が,蘭学者弾圧のあおりを受けて罪に落ちるという事件があったが,このとき馬琴は,助命歎願への参加を拒絶している。保身のエゴイズムと同時に,「お上の定めた法に抵触する者は非なり」と断じたからで,馬琴の思想信条の,ここらが限界といえるだろう。こうした欠点や短所が多々あるにせよ,ともあれ「書く」という営為に没入して終わった一生は真率だし涙ぐましい。トータルとしては愛すべき人物と評せるのではあるまいか。

(杉本苑子)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「滝沢馬琴」の意味・わかりやすい解説

滝沢馬琴
たきざわばきん

[生]明和4(1767).6.9. 江戸
[没]嘉永1(1848).11.6. 江戸
江戸時代後期の小説家。本名,興邦 (おきくに) ,のちに解 (とくる) 。号,曲亭,著作堂主人,蓑笠漁隠 (さりゅうぎょいん) ,玄同,信天翁など。父は深川の松平信成家の用人。 14歳で主家を出奔,徒士 (かち) 奉公などで放浪の末,寛政2 (1790) 年秋,山東京伝に入門,同3年大栄山人の名で黄表紙『尽用而二分狂言 (つかいはたしてにぶきょうげん) 』を発表。同5年飯田町の履物商に入り婿,かたわら著述に専念。のち読本に転向,後期読本界の第一人者となり,長編読本に新生面を開いた。主著,読本『椿説弓張月 (ちんせつゆみはりづき) 』『南総里見八犬伝』『近世説美少年録』,合巻『傾城水滸伝』 (1825~35) 。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「滝沢馬琴」の解説

滝沢馬琴 たきざわ-ばきん

1767-1848 江戸時代後期の戯作(げさく)者。
明和4年6月9日生まれ。山東京伝の門にはいり,京伝の代作や黄表紙を執筆。「復讐―月氷奇縁」で文名をたかめ,以後読み本を量産する。途中でほとんど失明しながら嫁の路の代筆で大作「南総里見八犬伝」を文化11年より28年をかけて完成させた。嘉永(かえい)元年11月6日死去。82歳。江戸出身。幼名は倉蔵。名は興邦(おきくに),のち解(とく)。通称は清右衛門。戯作号に曲亭馬琴,著作堂主人,蓑笠漁隠。作品に「椿説(ちんせつ)弓張月」「近世説美少年録」,随筆に「燕石雑志」「玄同放言」など。
【格言など】八犬伝は江戸の花(殿村安守あての手紙)

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旺文社日本史事典 三訂版 「滝沢馬琴」の解説

滝沢馬琴
たきざわばきん

1767〜1848
江戸後期の読本 (よみほん) 作者
別号は曲亭馬琴。本名興邦 (おきくに) 。江戸の人。山東京伝の門に入った。黄表紙から読本に転じ『椿説弓張月 (ちんせつゆみはりづき) 』『南総里見八犬伝』などの長編をつぎつぎに発表。歴史・伝説をとり入れた雄大な規模のもので,勧善懲悪を説いた。

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改訂新版 世界大百科事典 「滝沢馬琴」の意味・わかりやすい解説

滝沢馬琴 (たきざわばきん)

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百科事典マイペディア 「滝沢馬琴」の意味・わかりやすい解説

滝沢馬琴【たきざわばきん】

曲亭馬琴

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367日誕生日大事典 「滝沢馬琴」の解説

滝沢馬琴 (たきざわばきん)

生年月日:1767年6月9日
江戸時代中期;後期の読本・合巻作者
1848年没

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「滝沢馬琴」の解説

滝沢馬琴
たきざわばきん

曲亭馬琴(きょくていばきん)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「滝沢馬琴」の意味・わかりやすい解説

滝沢馬琴
たきざわばきん

曲亭馬琴

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世界大百科事典(旧版)内の滝沢馬琴の言及

【曲亭馬琴】より

…江戸後期の読本,合巻,黄表紙作者。本名滝沢興邦(おきくに),のち解(とく)。幼名は倉蔵また左七郎。通称清右衛門,笠翁また篁民。戯作号に,曲亭馬琴,著作堂主人,飯台陳人,玄同陳人,大栄山人,蓑笠漁隠(さりつぎよいん),信天翁など。狂名,変名は曲わの馬ごと,傀儡子清友,魁雷陳人など多数。1767年旗本松平信成の用人を務める滝沢運兵衛興義の五男として,江戸深川海辺橋東の松平屋敷内長屋で生まれた。ときに父43歳,母門(もん)30歳,長兄興旨(のち羅文)9歳,仲兄興春3歳。…

※「滝沢馬琴」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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