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ナポリ王国 ナポリおうこくRegno di Napoli

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ナポリ王国
ナポリおうこく
Regno di Napoli

ナポリを中心として南イタリアを支配した王国 (1282~1815) 。 12世紀のロジェール2世以来,シチリア王国シチリアと南イタリアを領有していたが,1282年の「シチリアの夕べの祈り」事件でシチリア王位についていたアンジュー家が追放されて,シチリア島は新たなシチリア王 (アラゴン家ピエトロ1世) に支配されることになった。このため南イタリアは旧シチリア王国から分離して新しくナポリ王国となり,アンジュー家が支配した。ロベルト (在位 1309~43) のもとで繁栄をみたが,彼の没後はアンジュー家の内紛が続き,1442年アラゴン王兼シチリア王アルフォンソ5世 (度量王) に征服された。アルフォンソ5世 (ナポリ王としては1世) の死後,ナポリ王は庶子のフェルディナンド1世が継いでシチリア王と分離されるが,16世紀初めからスペイン王がシチリア王とナポリ王を兼ねる体制が確立した。ナポリはいわばスペイン属領として収奪の対象とされたため,不満がつのり,1647年のマザニエッロの反乱などが起った。 18世紀初めのスペイン継承戦争の結果,オーストリアが支配権を握るが,ポーランド継承戦争中の 1734年スペインのブルボン家のカルロス (のちのスペイン王カルロス3世) がオーストリアを破り,38年ウィーン平和条約でシチリア王とナポリ王への即位を認められた。これ以降スペイン系ブルボン朝がナポリ王とシチリア王を兼ねて支配するが,国制上は両国それぞれ別個の存在となっていた。 99年一時パルテノペア共和国が成立し,1806年にナポレオン1世の兄ジョゼフ (1808年からミュラー) を王とするフランス支配のナポリ王国ができてブルボン朝はシチリアに逃れた。フランス支配の時期に封建制の廃止が宣言された。 15年フェルディナンド4世がナポリに復帰するが,彼はナポリ王国とシチリア王国を合併して,16年両シチリア王国をつくりフェルディナンド1世と改称した。形式的にはナポリ王国の歴史はここで終るが,ブルボン朝支配の両シチリア王国は 60年に G.ガリバルディによって解体され,住民投票の結果サルジニア王国に併合されることになった。

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デジタル大辞泉の解説

ナポリ‐おうこく〔‐ワウコク〕【ナポリ王国】

13世紀からイタリア半島南部にあった王国。1435年シチリア王国と合体。1713年以来オーストリア・スペイン・フランスの支配下におかれた。1815年再びシチリア王国と合体し、1860年ガリバルディの軍に征服され、1861年統一イタリアの一部となる。

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百科事典マイペディアの解説

ナポリ王国【ナポリおうこく】

1282年〈シチリアの晩鐘〉事件によりシチリアを追われたアンジュー家が,ナポリを本拠とした時に成立。ゲルフに属し,14世紀前半にもっとも栄えた。1442年にアルフォンソ5世によりアラゴンの親王領とされる。
→関連項目カンパニア[州]シチリア王国シャルル[8世]ナポリメッツォジョルノ

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世界大百科事典 第2版の解説

ナポリおうこく【ナポリ王国】

13世紀末から19世紀初頭までイタリア半島南部を支配した王国。11世紀末から12世紀にかけて,イタリア半島南部とシチリア島はノルマン人によって征服され,結合された(1140)。こうして成立したシチリア王国はホーエンシュタウフェン家(シュタウフェン朝。1194‐1266),アンジュー家(1266‐1435)と受け継がれた。しかし1282年の〈シチリアの晩鐘〉事件によって,シチリア島はアラゴンの手に渡った。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ナポリ王国
なぽりおうこく

13世紀末から19世紀初頭までイタリア半島南部に君臨した王国。12世紀にノルマン人が建設したシチリア王国は、半島南部とシチリアからなり、シチリア王に統合された王国であった。その後、この王位はホーエンシュタウフェン家、ついでアンジュー家に受け継がれたが、1282年の乱(「シチリアの晩鐘」)により、シチリアの支配権はアラゴン家の手に渡り、アンジュー家の支配は半島南部に限られることになった。両家ともシチリア王の称号を手放そうとしなかったので、アンジュー家支配下の半島南部は首都名ナポリNapoliを冠してナポリ王国とよばれるようになった(正式には1759年)。その後、1442年にアラゴン家のアルフォンソ5世がアンジュー家よりナポリを奪い両王国を結合して両シチリア王を名のった。15世紀末から16世紀初めにかけて、ナポリ王国はフランスとスペインの角逐の場となり、豪族たちの離反も手伝って支配権はめまぐるしく交替したが、結局スペインの支配下に入った。
 以後1世紀にわたり、ナポリ王国はスペイン総督の下で政治的独立性を失い、植民地経済の犠牲を強いられた。この時代には民衆の大反乱が幾度か生じた。ナポリ王国は、スペイン継承戦争(1701~14)の最中の1707年以来オーストリアの支配下に置かれたが、1734年スペイン王フェリペ5世の子ドン・カルロスによって奪取された。1738年、この王の下で独立国南イタリア王国が誕生。以後、スペイン系ブルボン王朝の諸王が両シチリア王の称号でナポリに君臨する。この時代には、王家と啓蒙(けいもう)的市民層の協力関係がみられたが、フランス革命の勃発(ぼっぱつ)(1789)とともにこの関係は破れた。ナポリのブルボン政府はイギリスと同盟を結んで対仏戦争に参加したが、ナポレオン1世のイタリア侵入によってシチリアへ亡命した。1799年、ナポリ王国にかわってパルテノペア共和国が発足したが、数か月で倒れ、ブルボン家が復帰した。しかし、イタリア遠征にふたたび着手したナポレオン1世は、1806年ナポリ王国を征服すると、最初兄ジョセフJoseph Bonaparte(在位1806~08)を、ついで妹婿ミュラJoachim Murat(在位1808~14)将軍を王位に据えた。このフランス支配下で王国の近代化は著しく促進された。この間シチリアにふたたび亡命していたブルボンのフェルディナンド4世Ferdinando (在位1759~1806、1815~25。両シチリア王国としてはフェルディナンド1世、在位1816~25)は、ナポレオン1世没落後、ナポリに帰国し、1816年旧ナポリ王国を廃止して新しく両シチリア王国を樹立した。[重岡保郎]

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世界大百科事典内のナポリ王国の言及

【カンパニア[州]】より

…沿岸諸都市はシチリアや東方との交易により繁栄し,サレルノの医学校の発展,ナポリ大学創立(1224)など,ノルマン諸王の政策とあいまって黄金期を築いた。1442年にフランスのアンジュー家からスペインのアラゴン王家に支配が移ると,ナポリ王国はヨーロッパでも最も華やかな宮廷の一つとして,南イタリアのルネサンスが開花。両シチリア王国を経て,1860年イタリア王国に統一されたが,新国家建設のための重税と資本の流出などが,今日の南部問題の一因となっている。…

【リソルジメント】より

…ジャコビーノ革命は1796年のピエモンテから始まって99年のナポリ革命に至るまで,北から南へと継起したが,結局はすべて失敗に終わった。 このあとイタリア半島はナポレオン体制のもとに置かれ,北・中部はフランスに併合された地域を除いてナポレオンを王とするイタリア王国に,南はジョゼフ・ボナパルト,次いでミュラーを王とするナポリ王国に編成された。このフランス支配期にナポレオン法典の諸原則が導入されて,市民的諸改革が行われた。…

※「ナポリ王国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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