玉縄城(読み)たまなわじょう

日本の城がわかる事典 「玉縄城」の解説

たまなわじょう【玉縄城】

神奈川県鎌倉市にあった戦国時代の平山城(ひらやまじろ)。1512年(永正9)に、北条早雲(宗瑞、伊勢盛時)によって築かれた。以来、北条一族が城主となり、北条水軍(玉縄衆)の拠点となった。1495年(明応4)、韮山城(静岡県伊豆の国市)を本拠としていた早雲は、大森藤頼から小田原城(小田原市)を奪って西相模に進出し、当時相模最大勢力だった三浦氏と敵対した。早雲は三浦氏を攻略するにあたって、三浦氏の主君の扇谷上杉朝興が援軍に駆けつけ挟撃される事態にならないように、三浦半島の付け根に玉縄城を築き、三浦氏と扇谷上杉氏分断。1516年(永正13)に新井城(三浦市)の三浦義同(よしあつ)(道寸)・義意父子を滅ぼして相模一国を平定した。三浦氏滅亡後、玉縄城は東京湾をはさんで対立していた安房の里見氏に備えるための城として活用された。同城は1526年(大永6)、里見義豊(里見実堯との説もある)の鎌倉侵攻を撃退したのをはじめ、その後の里見氏の来襲も防いでいる。1590年(天正18)の小田原の役では北条氏勝が玉縄城の守将となったが、豊臣秀吉方の徳川家康の攻撃を受けて降伏・開城した。戦後、徳川家康が関東に入府したのに伴い徳川氏の城となった。玉縄城には家康側近の本多正信が入城し、その後、徳川一門の長沢松平氏居城となったが、1703年(元禄16)に長沢松平氏が上総国大多喜藩へ転封になった際に廃城となった。城跡には戦後まで同城の遺構が残っていたが、1963年(昭和38)に清泉女学院中学高等学校が移転して多くの遺構が失われた。「諏訪壇」と呼ばれる土塁が現存しているが、城があったことを偲ばせるものはほとんど残っていない。なお、城跡は同中学校の敷地になっているため一般の立ち入りはできない。同中学校校門前にある巨石は、玉縄城遺構の一部といわれている。JR東海道本線・根岸線大船駅からバス。◇甘縄城とも呼ばれる。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報