江戸初期の大名。徳川家康の側近。創業期の江戸幕府で,のちの大老または老中に相当する位置にあった。通称を弥八郎。祖父の代からの松平氏の家臣。幼いころから4歳年下の家康に仕えたが,1563年(永禄6)三河一向一揆に参加して家康に背き,翌年国を出て加賀に住んだが帰参し,70年(元亀1)姉川の戦に参加。82年(天正10)には家康の文書を取り次いでおり,これ以前にその側近となっていたと考えられる。86年従五位下佐渡守。90年家康の関東移封にともない上野八幡(やわた)(現,高崎市内)で1万石(相模甘縄(あまなわ)との説もある)。のち加増をうけ2万2000石。1600年(慶長5)6月家康の上杉景勝攻めに従って下野小山(おやま)に随行したが,関ヶ原の戦では中山道を西上した徳川秀忠に従って信州上田城攻めに手間どり,美濃の本戦には参加しなかった。05年秀忠の将軍宣下後も秀忠の側近にあり,家康の側近であった子の正純との連携のもとに,実質的に秀忠を指導した。大坂の冬・夏の陣にも秀忠に従って参戦。4月に死んだ家康のあとを追うように16年6月7日江戸で没。鷹匠であったという説,加賀出奔中の戦傷により生涯足が不自由であったという説がある。家康との関係については,主従というよりも気心を知りあった友人であったことをうかがわせる逸話が多数残っている。次子の政重は加賀前田家に仕え,子孫は家老として明治維新にいたった。
執筆者:高木 昭作
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徳川家康の側近。江戸幕府創業期に、後の大老・老中に相当する役割を果たした。古くからの松平氏譜代(ふだい)の家柄の生まれ。代々通称を弥八郎(やはちろう)。1563年(永禄6)三河一向一揆(いっこういっき)に参加して家康に敵対し、翌年国を出て加賀(石川県)に逃れた。帰参の年は明らかでないが、70年(元亀1)姉川(あねがわ)の戦いで軍功をたてたという言い伝えがある。82年(天正10)には家康の文書の発給に関係しており、このころまでに家康の側近となっていたことがわかる。86年従(じゅ)五位下佐渡守(さどのかみ)。90年上野(こうずけ)(群馬県)八幡(やわた)(相模(さがみ)甘縄(たまなわ)説もある)で1万石。のち加増されて2万2000石を領した。1605年(慶長10)ころから秀忠(ひでただ)の側近に配置され、家康の意を受けて実質的に秀忠を指導した。家康とは気心の通じ合った主従であり、君臣水魚の交わりともいうべき逸話が伝わっている。元和(げんな)2年6月7日江戸で没。治国の要を記した『本佐録(ほんさろく)』は正信の著と伝えられるが、後人による仮託であろう。
[高木昭作]
(小和田哲男)
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1538~1616.6.7
織豊期~江戸初期の武将・大名。徳川家康に仕えたが,1563年(永禄6)三河一向一揆で一揆勢に加わり家康と交戦。その後家康に再び仕え,政務能力を高く評価される。90年(天正18)家康の関東入国に従い相模国玉縄(たまなわ)(上野八幡とも)に1万石を与えられ,関東総奉行となる。以後,家康の側近として活躍。1603年(慶長8)家康が将軍になると秀忠付となり,大久保忠隣(ただちか)とともに秀忠政権を支え,2万2000石に加増。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…また本書の〈天道〉観はキリスト教の影響の下に成立したことが指摘されている。2代将軍徳川秀忠の側近を務めた本多正信が秀忠のために書いたとされてきたが,内容上は,通俗訓戒書《仮名性理》(藤原惺窩著といわれる)に手を加え,正信著に仮託したものである。【高木 昭作】。…
※「本多正信」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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