目黒道琢(読み)めぐろ・どうたく

朝日日本歴史人物事典 「目黒道琢」の解説

目黒道琢

没年:寛政10.8.30(1798.10.9)
生年:元文4.3.10(1739.4.17)
江戸中・後期の医者。陸奥会津柳津(福島県柳津町)の人。名は尚忠,字は恕公,号は飯渓。畠山氏を祖とする豪農の家に生まれたが,江戸に出て曲直瀬玄佐(7代目道三)の門に入り医を学び,塾頭となる。学問,医術ともにすぐれ,松平定信の信任を受けて医学館(躋寿館)の教授に招かれ,34年間にわたって医経を講義した。市井の医者としては破格の扱いを受け,寛政10(1798)年には将軍徳川家斉に謁したがこの年没した。江戸の考証医学を興した重要人物として,また臨床医学方面の業績も高く評価されている。

(小曾戸洋)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「目黒道琢」の解説

目黒道琢 めぐろ-どうたく

1724-1798 江戸時代中期の医師。
享保(きょうほう)9年生まれ。多紀元孝(たき-もとたか)が江戸神田に創立した医学校躋寿館(せいじゅかん)でおしえ,幕府の医学館に昇格するとともに講師となる。考証医学にすぐれた。寛政10年8月30日死去。75歳。陸奥(むつ)会津(あいづ)(福島県)出身。名は尚忠。字(あざな)は恕公。号は飯渓。著作に「餐英館(さんえいかん)療治雑話」など。

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