エジプト中部のナイル東岸にある古代エジプト第18王朝の宗教改革王イクナートンの都址。古代エジプト名アケトアテンAket-Aten(〈アテンの地平線〉の意),現在の正式名はエルアマルナAl-`Amārnaで,テル・エルアマルナTell al-`Amārnaともよばれる。改革の実現のため王の治世第4年に造営が決定され,第6~第8年の間にテーベより遷都してから,次王ツタンカーメンの治世第4年に放棄されるまでわずか15年ほどの都であったが,都市計画にもとづいて処女地に建設され,のち異端の都としてほぼ完全に破壊放棄されたため,遺構の基礎部分の保存がよく,都市のプランを知りうる古代エジプトでは数少ない遺跡の一つとして重要である。新王国時代の二大都市テーベとメンフィスのほぼ中間に位置し,東岸の砂漠台地が後退して形成された直径13kmほどの半円形の平地は,ナイルの増水位よりも高いため,耕地として利用できず,大都市の建設に十分な広さを提供したのである。
1891年ピートリー,1907-14年ドイツ・オリエント学会,21-36年イギリスのエジプト調査協会の発掘によって,アテン大神殿,アテン小神殿,大王宮,王の私邸,王の記録庫,彫刻師トトメスの工房などの官庁と貴族の大邸宅や一般住居を含む中央市街地,北郊の北王宮と砂漠祭壇,南郊のマルアテン神殿,東郊の墓地造営労働者の村など,都市の主要部分が明らかにされている。アテン神殿を除いて建物は日乾煉瓦造で,漆喰塗の壁や床には幾何学文や自然描写の絵画が描かれていた。アテン神殿の石材はのち西岸のヘルモポリスでの神殿建築に流用された。平原の東に開くワーディー中には王墓が,平原を画する砂漠台地の崖中には南北二つの貴族たちの墓地が造営されている。それらは鉛直線上の墓室配置(王墓),アマルナ様式の壁面浮彫,植物柱の使用を特徴とする。西岸の耕地帯を含め新都の境界を示す碑が砂漠台地岩面に刻まれたが,うち14(東岸11,西岸3)が確認されている。
→アマルナ時代
執筆者:屋形 禎亮
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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