古代エジプト第18王朝10代目の王。在位,前1364年ころ-前1347年ころ。宗教改革者。アクナトン,アケナーテンともいう。第9代アメンヘテプ3世と皇后ティイの子。皇后はネフェルティティ。アメンヘテプ4世として即位するが,当初より当時帝国の守護神として王家の尊崇を集め,おびただしい寄進によって経済力を蓄えて,国政に対する影響力を増大させてきたアメン神とその神官団に対抗するため,太陽神アテン信仰の育成に努力した。やがてアテンを唯一の神とし,アメン以下伝統的な神々の信仰を禁止する〈宗教改革〉を断行。王名をアメンヘテプ(〈アメンは満足する〉の意)からイクナートン(〈アテンに有用〉の意)へ改め,改革の徹底のためアメンの町テーベから現在のアマルナに建設した新都アケトアテンへ遷都する。古代エジプトの王(ファラオ)は政治・宗教の最高指導者であるから,改革の目的は宗教改革であると同時に政治改革,すなわち王権に対抗する勢力に成長したアメン神官団を抹殺し,王権の一元支配を貫徹することにあった。
即位したイクナートンは,自分の信念に従って新しい太陽神アテンの信仰を宣言する。アテンは万物の創造者,宇宙秩序の維持者,生命の賦与者で,従来の神々とちがって人体で表現されず,日輪そのものを礼拝の対象とし,日輪と光線とで表現された。アテンは神々の王とされ,王と同じく神名はカルトゥーシュで囲まれ,王と同じ形容辞が付加され,王と共に王位更新祭(セド祭)が祝われた。カルナックのアテン大神殿の東側に,日輪を礼拝するにふさわしい有蓋部分の少ない新形式のアテン神殿の建築がはじまり,王の身体的特徴を人体表現の規範とする彫刻や浮彫で飾られた(アマルナ美術)。治世第4年には,アテンの天地創造の場として,アテンのみに捧げられた新都アケトアテンの造営が決定され,起工式が行われた。第6年には主要な建造物はほぼ完成,第8年までの間に遷都が実施された。この間王名が改名され,中エジプト語に代わり,当時の口語であった新エジプト語が文章語となる。治世第9年のアテン後期名の採用により,改革はほぼ完成,アテンの正式名称から古い太陽神の痕跡が消され,これに基づいて,アメンをはじめ唯一神アテン以外の神名の神殿・墓・記念碑からの削除がエジプト全土にくりひろげられる。しかし王自らの論理の整合性のみを追求し,伝統を無視した性急な改革は,大多数のエジプト人の反感をかってアテン信仰は定着せず,有能な官僚の排除による内政の混乱,ヒッタイト王の進出に対する有効なアジア植民地防衛策の欠如という外政の失敗は,宇宙秩序保持者としてのファラオの責務の放棄,国家神としてのアテンの不適格性の証明とされ,王の死後ツタンカーメン王による信仰復帰がなされる。民族を超えた普遍宗教的性格を萌芽するアテン信仰も,王の存在も,〈異端〉としてエジプト人の記録から抹殺された。
→アマルナ時代
執筆者:屋形 禎亮
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生没年不詳。古代エジプト第18王朝10代目の王(在位前1379~前1362)。アメンヘテプ3世の子として生まれた彼は、アメンヘテプ4世と命名された。「アメンは満足す」を意味するその名が示すように、彼はアメン信仰の子として育てられた。アメン神は第12王朝以来のテーベの地域神で、もともとは大気の神であったと考えられるが、第18王朝では戦争の神として崇(あが)められ、王家の神、したがって国家の神となった。外敵ヒクソスを撃退できたのはアメン神の加護によると第18王朝の王家は信じたのである。当然、アメン祭司団は宗教、政治、財政に発言権を増大していった。そういう時代の子として生まれたアメンヘテプ4世は、幼時から思索的傾向が強く、ヒツジの頭で表現されるアメン神と、これを頂点とする動物姿の他の多くの神々に疑問を抱いた。16歳のころ年下の従妹ネフェルティティと結婚した。その年は、父アメンヘテプ3世の治世30年でもあり、この年をもって3世は4世との共同統治を宣した。4世はこのころから新宗教、アトン信仰への傾斜を強め、テーベにアトン神のために八つの神殿を建てた。しかしアメン祭司団の妨害と圧迫が強いので、即位5年目にテル・エル・アマルナに都を移し、アトン神のみが神であり、他の神々は偽りであると宣し、自らの名をイクナートンと改めた。新王名は「アトンを歓(よろこ)ばせる者」の意である。ここに「アマルナ時代」が始まった。
アマルナ時代は芸術上の写実主義を生み出した。王家の私生活が絵画彫刻のモチーフになり、ぶかっこうな王の体形もそのまま造形化された。一方、王は自ら信仰のための経文を詩の形で数多く書いた。「アトン賛歌」はとくに有名であり、『旧約聖書』詩篇(しへん)104への投影は古くから知られている。しかしアジアの支配地はこの時代に次々と失われた。支配地からの救援要請の手紙をはじめ、外交文書(アマルナ文書(もんじょ))が19世紀末に発見された。
[酒井傳六]
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…アトンAtonともいう。もともとは天体としての太陽(日輪)そのものをさしたが,新王国時代になって太陽神の一人として神格化され,イクナートンの宗教改革によって,従来の国家神アメンにとって代わり,宇宙を創造し,その秩序を維持し,万物に生命を賦与する唯一絶対の神とされた。エジプトの尊崇厚いヘリオポリスの太陽神ラーがアテンとして復帰したことを告知する長い正式名称は,神々の王としてのアテンの地位を表すため,王名と同じカルトゥーシュで囲まれている。…
…エジプト中部のナイル東岸にある古代エジプト第18王朝の宗教改革王イクナートンの都址。古代エジプト名アケトアテンAket‐Aten(〈アテンの地平線〉の意),現在の正式名はエルアマルナAl‐‘Amārnaで,テル・エルアマルナTell al‐‘Amārnaともよばれる。…
…古代エジプト第18王朝の宗教改革王イクナートン(在位,前1364ころ‐前1347ころ)の新都アケトアテンの現在名にちなんでつけられた時代。アマルナに都のおかれたイクナートンの治世および改革の萌芽のみられる先王アメンヘテプ3世の治世後半をさし,時には次王ツタンカーメン王の治世を含めることもある。…
…古代エジプトの宗教改革王イクナートンが,その信奉するアテン信仰の原理に基づいて,自ら指導育成した反伝統的傾向の濃い芸術で,エジプト美術史上特異な地位を占める。伝統的なエジプト美術が,時間を超えた永遠の本質を表現するため,きわめて様式化された表現形式を遵守しているのに対して,瞬間の動きの表現や自由な自然描写など,自然主義風・写実主義風な表現を特色とする。…
… しかしこの征服の加護者とされたテーベの守護神アメンもまた大量の富や土地の寄進を受けて経済力を蓄え,アメン神官団の政治や王位継承への介入が始まる。神官団の影響力を排除し,王権の一元支配の貫徹をめざしたのがイクナートン(アメンヘテプ4世)の〈宗教改革〉である。しかし急激な改革に伴う内政の混乱とヒッタイトの進出によるアジア植民地の喪失は官僚と軍人の信頼を失わせ,改革は一代限りで終わり,ツタンカーメン王による伝統信仰の復興がなされる。…
…古代エジプト第18王朝第10代の王イクナートン(在位,前1364ころ‐前1347ころ)の妃。出身についてはミタンニ王女説とエジプト貴族の娘とする2説がある(近年では後者が有力)。…
※「イクナートン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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