日本大百科全書(ニッポニカ) 「イクナートン」の意味・わかりやすい解説
イクナートン
いくなーとん
Ikhnaton
生没年不詳。古代エジプト第18王朝10代目の王(在位前1379~前1362)。アメンヘテプ3世の子として生まれた彼は、アメンヘテプ4世と命名された。「アメンは満足す」を意味するその名が示すように、彼はアメン信仰の子として育てられた。アメン神は第12王朝以来のテーベの地域神で、もともとは大気の神であったと考えられるが、第18王朝では戦争の神として崇(あが)められ、王家の神、したがって国家の神となった。外敵ヒクソスを撃退できたのはアメン神の加護によると第18王朝の王家は信じたのである。当然、アメン祭司団は宗教、政治、財政に発言権を増大していった。そういう時代の子として生まれたアメンヘテプ4世は、幼時から思索的傾向が強く、ヒツジの頭で表現されるアメン神と、これを頂点とする動物姿の他の多くの神々に疑問を抱いた。16歳のころ年下の従妹ネフェルティティと結婚した。その年は、父アメンヘテプ3世の治世30年でもあり、この年をもって3世は4世との共同統治を宣した。4世はこのころから新宗教、アトン信仰への傾斜を強め、テーベにアトン神のために八つの神殿を建てた。しかしアメン祭司団の妨害と圧迫が強いので、即位5年目にテル・エル・アマルナに都を移し、アトン神のみが神であり、他の神々は偽りであると宣し、自らの名をイクナートンと改めた。新王名は「アトンを歓(よろこ)ばせる者」の意である。ここに「アマルナ時代」が始まった。
アマルナ時代は芸術上の写実主義を生み出した。王家の私生活が絵画彫刻のモチーフになり、ぶかっこうな王の体形もそのまま造形化された。一方、王は自ら信仰のための経文を詩の形で数多く書いた。「アトン賛歌」はとくに有名であり、『旧約聖書』詩篇(しへん)104への投影は古くから知られている。しかしアジアの支配地はこの時代に次々と失われた。支配地からの救援要請の手紙をはじめ、外交文書(アマルナ文書(もんじょ))が19世紀末に発見された。
[酒井傳六]