古代エジプト第18王朝の宗教改革王イクナートン(在位,前1364ころ-前1347ころ)の新都アケトアテンの現在名にちなんでつけられた時代。アマルナに都のおかれたイクナートンの治世および改革の萌芽のみられる先王アメンヘテプ3世の治世後半をさし,時には次王ツタンカーメン王の治世を含めることもある。また古代オリエント史上においては,アマルナ出土の楔形文字文書(アマルナ文書)によってエジプト支配下のシリア,パレスティナをめぐるオリエント諸国の国際関係を研究できる前14世紀前半から中葉にかけての時代をさす。
エジプト国内では,王権による一元支配の実現をめざして,太陽神アテンを唯一神とする〈宗教改革〉,新都の造営が断行され,これに呼応するアテン信仰に基づくアマルナ美術の出現,言文一致をめざす新エジプト語の文章語採用など,文化全般にわたり反伝統主義的な革新の気風が支配する。しかしこの動向は当時のファラオの専制君主的傾向によるところ大である。トトメス3世の完成した植民地支配体制によって莫大なアジアの富がエジプトに流入して,アメンヘテプ3世下で帝国の繁栄は頂点に達し,自らの手によって大帝国を建設したとのファラオの自負心が,非王族の娘ティイの皇后冊立など,ファラオの意志がすべてに優先するとの専制君主観を育成する。しかし一方では大帝国の建設者,守護者としての国家神アメンも,王による巨大な寄進を通じて経済力を蓄え,アメン神官団は王権に対抗する一大勢力に成長する。〈宗教改革〉は,専制君主観に基づいて,ファラオは政治・宗教(文化)の最高指導者であるとする伝統的な王権の理念を,一挙に,文字通りに現実化しようとした試みといえる。しかし現実を無視した急激な改革は,保守的なエジプト人の反感を買って改革は定着せず,内政の混乱と植民地経営の失敗は,改革の誤りの証明とされ,イクナートン1代限りで改革は終わる。ただ文章語の変化とアマルナ美術の影響はラメセス時代も残る。
前14世紀前半(アメンヘテプ3世治下)の国際情勢はおおむね安定しており,エジプトの優位下に大国間の力の均衡が実現した。エジプトはバビロニア,アッシリア,ミタンニと外交書簡を交換して親交を結び,贈物(エジプトからは金,諸国からは馬,戦車,象牙,宝石,木材など)を交換しあった。ミタンニ,バビロニアからは王女が後宮に送られて,同盟を固め,キプロス,クレタなどエーゲ海諸国との交易も栄えた。しかしヒッタイト王スッピルリウマが即位すると,ヒッタイトはエジプトと表面は親交を結びながらも,アムル侯アブディアシルタとその子アジル,カデシュ王アイタカマ等を離反させ,イクナートンの植民地経営への無関心を利用してミタンニを属国化,ビュブロス侯リブアッディはじめエジプトに忠実な諸侯を征服,シリアに対する支配権を確立する。パレスティナではハビル(ヘブライ人か)が活動,エジプトの勢力は一時的にアジアからほとんど一掃される。
執筆者:屋形 禎亮
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
エジプト新王国第18王朝、アメンヘテプ3世、4世の治世。紀元前1417年ごろから前1362年ごろまでの時代をいう。前代のトゥトメス3世、アメンヘテプ2世、トゥトメス4世の外征で、エジプトには莫大(ばくだい)な富がもたらされたと同時に、他民族の異文化が流入したことによって既存の文化は多大な影響を受けた。アメンヘテプ3世の時代は、アジアのミタンニ、ヒッタイトなどの国々と文化交流が盛んに行われた。アメンヘテプ4世の時代に入ると、テーベのアモンの神官団の権力が異常に増大し、王権自体が危ぶまれてきた。それを憂慮した4世は、治世4年、アトンという太陽神を絶対唯一神とし、テーベのアモンの信仰崇拝から脱すべく宗教改革を行った。その手始めとして、治世6年、アケト・アテン(アテンの地平線という意味。今日のテル・エル・アマルナ)の建設を開始、治世8年、テーベからここに都を移し、王名もイクナートン(アトンの光輝)と改名した。この宗教改革は、単に宗教のみにとどまらず、芸術、とくに壁画、彫像、神殿建築、また文学においては文語体から口語体へと、伝統を否定する種々の試行錯誤が多岐にわたって行われた。つまり新王国時代初頭に支配していた芸術における理想主義が、この時代に入って写実、自然主義の傾向へと変化していった。
[大村幸弘]
従来の伝統に拘束されることなく、自由な発想を背景に描かれている。アケト・アテンの王廟(おうびょう)には、王女の死を悲しむ両親の姿が克明に描かれており、写実主義がみごとに貫かれているが、テーベの西岸にある貴族の墓の壁画にも、その兆候は認められ、遷都以前にすでに写実主義の基礎が確立されていたといえる。
[大村幸弘]
彫像も写実、自然主義を基本としている。イクナートンの彫像は、王自身の内面的性格すら読み取ることができるし、アケト・アテンの工房で発見されたネフェルティティ(イクナートンの妃(ひ))の頭部像では、王妃の唇、目、そして顎(あご)から胸へかけての穏やかな美しい線など、実に正確に写実されている。
[大村幸弘]
アメンヘテプ3世の時代には、前諸王の時代に蓄積された富をもとにルクソール神殿、テーベ西岸に王自身の葬祭殿が造営されたが、構築方法、プラン自体は伝統を踏襲したものといえる。しかし、アケト・アテンの神殿建築は、方位的には従来どおり東向きではあったが、光線を配慮したためルクソール神殿などにみられる多柱室は廃止された。またこの神殿は急遽(きゅうきょ)造営されたこともあって、建築資材に従来のように石材は多用されず、日干しれんががおもに使用されたため、神殿自体荘厳な重厚さには欠けていた。
アマルナ時代はイクナートンの死後終わりを告げた。ツタンカーメン王の時代に入り、旧秩序の回復を望む神官団と王との間に和解が成立、都もアケト・アテンからふたたびテーベへ戻され、アモン信仰が復活した。しかし、表面的には旧秩序が回復したものの、芸術に一度吹き荒れた写実、自然主義は、次の時代にまで強い影響を与えた。
[大村幸弘]
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(1)広義には,アマルナ文書の時代である前14世紀をいう。エジプト第18王朝を中心として,オリエント諸国の間に広い国際関係が発展した。(2)狭義には,アメンヘテプ4世の遷都によってアマルナに都(遺跡がテル・エル・アマルナ)が置かれた,前14世紀の20年足らずの期間をいう。同王の宗教改革に伴って,新しい写実主義的・個性的な文学,美術が生まれ,エジプト史上に一時期を画した(アマルナ革命)。アメンヘテプ4世の「太陽賛歌」,王妃ネフェルティティの胸像などはその例である。
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