日本大百科全書(ニッポニカ) 「テーベ」の意味・わかりやすい解説
テーベ(ギリシア)
てーべ
Thebes 英語
Thebai ギリシア語
ギリシア中部ボイオティア地方の都市。テバイともいう。ギリシア現代名はシーバThivaまたはシーベThive。ディルケーの泉をはじめとして幾多の泉と森に富むこの市は、伝えによると、フェニキアから渡来しギリシアにアルファベットをもたらしたカドモスKadmosによって建設された。ソフォクレスの悲劇『オイディプス王』で知られるオイディプス伝説など数々の神話の舞台の地としても、詩人ピンダロスの生地としても古来有名であった。この地には、初期青銅器時代からの居住の跡があり、ミケーネ時代の宮殿跡も発見されている。これまでの遺跡の発掘調査により、壁画、線状文字B、紀元前14世紀ごろのメソポタミアの円筒印章などが出土している。とくに、印章はカドモス伝説と絡んでオリエントとの交流を推測させるものとして注目に値する。
テーベが歴史の舞台にはっきりと登場するのは、前6世紀、ペイシストラトス治下のアテネと友好関係を維持したころからである。しかし、その後、両国は前519年ごろプラタイアイをめぐって対立し、長期にわたる敵対関係に入った。ペルシア戦争に際してはペルシア側にくみしたため、一時ボイオティア同盟の盟主の地位を失った。ペロポネソス戦争ではスパルタ側にたったが、戦後、スパルタの支配に反対してスパルタと交戦した。前386年アンタルキダスの条約が締結されたのち、一時スパルタの守備隊が駐留したが、エパミノンダス、ペロピダスの両雄が活躍するに至って前371年のレウクトラの戦いでスパルタを撃破し、一時はギリシアの一大勢力になった。だが、この覇権も永続せず、前338年にはマケドニアに征服され、さらに反乱を企てると、前335年アレクサンドロス大王により、神殿とピンダロスの生家を除いて全市が破壊された。
その後、カッサンドロスにより再建され(前316)、ローマが侵攻するとミトリダテスにくみして戦ったが、結局スラの率いるローマ軍に敗れて服従するに至り(前86)、往古の繁栄は夢となり、歴史家ストラボンStrabon(前64―後21ころ)の時代には一寒村にすぎなかった。しかし、中世初頭には再興し、9世紀にはビザンティン帝国のギリシア支配の長官の居住地となり、10世紀には絹貿易の集散地として栄えた。1146年シチリア王国に攻略されてふたたび衰退の道をたどった。中世末期にはアテネ公国(1204~1388)領、1460年からはオスマン・トルコ帝国の支配下に入った。1829年ギリシア人がトルコからの独立を達成したとき、テーベは新興ギリシアの版図下にあった。
現在は人口1万9100(2001推計)。郊外には穀倉地帯が広がり、国道、鉄道の便もよく、ボイオティア地方の中心的都市となっている。市内には、当地方で発掘された遺物を展示する博物館がある。
[真下英信]
テーベ(古代エジプト)
てーべ
Thebes
古代エジプトの都市。上エジプトの今日のルクソールにあたる地域を占め、ナイルの東西両岸にまたがっていた。エジプト名はワセトWasetといい、テーベというのはギリシア人のつけた名称。東岸都市をさすタ・アペトという名称の発音が、ギリシアの都市テーベに似ているため、この名称をエジプト都市に与えたものらしい。『旧約聖書』ではノアメン(アメンの都)とよばれている。中王国時代にアメン神を奉ずる王朝の首都として登場し、新王国時代にアメン神の本山および首都として大発展を遂げ、古代オリエントの中心都市となった。東岸ではカルナック神殿とルクソール神殿が壮大な多柱ホール、塔門、彫像、オベリスクをもって築造され、西岸では諸王の葬祭殿が建てられた。いまもセティ1世、ハトシェプスト女王、ラムセス2世・3世の葬祭殿が当時の偉容をとどめている。また西岸の谷には豪華な壁画を備えた地下墳墓が造営された。1979年に世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。
[酒井傳六]