改訂新版 世界大百科事典 「アラウンパヤー」の意味・わかりやすい解説
アラウンパヤー
Alaungpaya
生没年:1714-60
ビルマ(現ミャンマー)のコンバウン朝の創始者。幼名アウンゼーヤ。上ビルマの猟師村モウソーボーに村落首長の次男として生まれる。1752年のタウングー朝滅亡に際し,村の周囲に防柵をめぐらし,その外に濠を掘ってモン軍の降伏要求を拒否,周辺46ヵ村の村落首長を糾合してモン軍の再度の包囲攻撃にも果敢に抵抗,逆にモン軍を撃破した。54年1月アバを奪取,チャウミャウンでの戦闘に勝利を収めると,下ビルマの攻撃に転じ,55年3月ダガンを陥れてラングーン(敵の殲滅)と命名。56年6月要塞シリアム,57年5月にはモンの首都ペグーを包囲攻城の末陥落させ,名実共にビルマの盟主となった。57-58年にはシャン地方北部のグエ族を討伐,続いてマニプルを隷属させた。60年マルタバン,タボイ経由でシャム遠征に乗り出したが,アユタヤ攻略には失敗,帰路赤痢にかかり5月ビーリンで死去した。6尺近い大男だったと伝えられる。彼が編纂させたという《マヌチェ法典》は当時の慣習法をまとめたものとして有名。
執筆者:大野 徹
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報