アラービー運動(読み)アラービーうんどう

改訂新版 世界大百科事典 「アラービー運動」の意味・わかりやすい解説

アラービー運動 (アラービーうんどう)

1879年に結成されたワタン祖国)党を中心勢力とし,アフマド・アラービー大佐を指導者とするエジプトの民族運動。オラービー運動とも呼ばれる。直接的には,1876年以降のエジプト財政の国際管理とそこで急速に強化されたヨーロッパ人支配(いわゆる〈ヨーロッパ内閣〉の成立)に対する批判と抵抗であった。オスマン帝国の宗主権,西欧列強のエジプト内政への干渉,トルコ人,チェルケス人等からなる支配階層など,当時の複雑な支配体制を反映して,その主張は反西欧,反オスマン帝国,反ヘディーウなど,さまざまな側面をもっていたが,その基調は,立憲制の確立と議会の開設による外国支配の排除とヘディーウ権限の制限であった。この運動は,すでにイスマーイール・パシャの治世下に萌芽がみられた立憲運動の延長線上にあり,それゆえ支持者として,エジプト人将校,改革派ウラマー,村落有力者,商人,さらにはトルコ系大地主階層の一部をも含む幅広い運動となり,ついには一時的に1881年憲法とワタン党権力とをつくり出したが,議会による予算管理を要求するこの運動は,外国人債権者および列強の強硬な反対と干渉とに直面し,切り崩され,鎮圧されることとなった。運動は,81年におけるアフマド・アラービー大佐の武力蜂起に始まり,翌年のイギリス軍出兵をもって失敗に終わり,指導者アラービーやムハンマド・アブドゥフらは国外追放され,以後エジプトはフランスを出し抜いたイギリスによってその単独軍事占領下に置かれることとなった。〈エジプト人のエジプト〉という運動のスローガンは,農民出身の軍人アラービー大佐という指導者によって体現されただけでなく,その後のエジプト民族主義運動の原点となったのである。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のアラービー運動の言及

【エジプト】より

… 第3代のサイード・パシャ(在位1854‐63)が認可してイスマーイール・パシャ(在位1863‐79)のもとにフランス人レセップスが69年に開いたスエズ運河は,エジプトの戦略的地位の重要性を飛躍的に高め,かえって災いを招くことになった。イスマーイール・パシャの外債依存の欧化政策は,76年国家を破産させ,イギリス,フランス,ドイツ,オーストリアの財政管理が始まったが,これに対してアラービー運動とよばれる民族革命が起こった。発端は81年の青年将校の反乱であったが,アフマド・アラービー大佐を指導者とするワタン(祖国)党勢力は,立憲制の確立,議会の開設による外国支配の排除,総督の権限の制限を求め,ヨーロッパ支配に反発する名望家層やギリシア人高利貸に苦しむ農民大衆も立ち上がって,82年アフマド・アラービーを陸軍大臣とするワタン党政府が成立した。…

【ムハンマド・アリー朝】より

…以後,サイード・パシャイスマーイール・パシャの統治下にあって,スエズ運河開設に象徴される一連の近代化政策が実施され,その間,エジプト財政の外資依存と綿作モノカルチャー農業構造の進展によって,エジプト経済の対西欧従属過程が進んだ。76年におけるエジプト財政の破産に端を発した一連の政情不安の中で,近代エジプト最初の民族主義運動であるアラービー運動(1879‐82)が発生したが,イギリス軍によって鎮圧され,以後エジプトはイギリスの軍事支配下に置かれ,エジプト経済の対西欧,とりわけ対英従属化は強化された。 第1次世界大戦後の1919年,サード・ザグルールを指導者とする反英民族独立運動が発生し,この運動の高まりの中で,22年イギリスはエジプトの独立を一方的に宣言した。…

※「アラービー運動」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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