インドギリシア人(読み)インドギリシアじん

改訂新版 世界大百科事典 「インドギリシア人」の意味・わかりやすい解説

インド・ギリシア人 (インドギリシアじん)

前2世紀から前1世紀末にかけて西北インドで活動したギリシア人。サンスクリット語ではイオニアのなまったヤバナYavanaの名で,また俗語ではヨーナYonaの名で呼ばれる。アレクサンドロス大王の帝国の北東端にあたる中央アジアのバクトリア地方は,大王の死後シリアのセレウコス朝の支配下に入ったが,前250年ごろギリシア人太守ディオドトスがこの地に独立王国をうち建てた。このバクトリア王国のギリシア人勢力は,マウリヤ朝が衰退に向かった前200年ごろから西北インドに侵入し,一時はガンガーガンジス)川中流域にまで兵を進めた。前140年ごろ,ギリシア人は中央アジアの遊牧民族に攻められバクトリアを失ったが,パンジャーブ地方を本拠に政権を維持しつづけた。インド・ギリシア人諸王のなかでも,パンジャーブのシャーカラ(現在のシアルコートとする説が有力)に都を置いて,アフガニスタンから中央インドに達する広大な領土を支配したメナンドロス在位,前155-前130ころ)がとくに名高い。この王はギリシア・ローマの文献では正義に立つ大征服者として,仏教文献では仏教に帰依した学者王として伝えられている。メナンドロスの死後,王国は次第に衰退し,各地に分立していたギリシア人勢力も,新たに侵入してきた中央アジア系諸民族に圧倒されて,西暦紀元の前後ごろに滅亡した。

 メナンドロス伝説や,各地の宗教遺跡に残る碑文から,インド・ギリシア人がはやくよりインド文化を受容していたことがわかる。一方彼らの側も,インドの社会や文化の諸方面に影響を与えている。例えば,表面に王の像と称号裏面神像を打ち出したギリシア貨幣の様式は,その後のインド貨幣に広く採用されており,またタキシラのシルカップ遺跡に見られる整然とした都市建設や,建造物・彫刻などにも,ヘレニズム文化の影響が認められる。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...

黄砂の用語解説を読む