改訂新版 世界大百科事典 「バクトリア王国」の意味・わかりやすい解説
バクトリア王国 (バクトリアおうこく)
前250年ころバクトリア太守ディオドトスDiodotosが,セレウコス朝の支配から独立,建国したギリシア人王国。首都は現在のアフガニスタン北部のバルフ(古称バクトラBaktra)にあった。なお,バクトリアBaktriaとはヒンドゥークシュ山脈からアム・ダリヤ中流域にかけての地域を指す歴史的呼称で,この地は前4世紀末アレクサンドロス大王の攻略をうけ,大王の死後はセレウコス朝の支配下に置かれた。従来,美しいギリシア・バクトリア銀貨を除き,王国の存在を示す遺物は見つからなかったが,1964年以来,バルフの東方約300km,コクチャ川とアム・ダリヤ合流点のアイ・ハヌム遺跡において真正のギリシア人都市が発見され,フランス考古学者の手で神殿,墓廟,円形劇場,彫刻,碑文などが発掘されて,不明の歴史に新しい光を投げかけている。アイ・ハヌムはバクトリア王国の副都か,東方の重要都市であったにちがいない。西方や中国側史料によれば,バクトリア王国(中国史料の大夏に相当する)は前150年ころ,シル・ダリヤのかなたから侵入してきた大月氏(月氏(げつし))によって滅亡したという。残余のギリシア人はヒンドゥークシュの南へ逃れ,しだいに土着化した。
執筆者:小谷 仲男
美術
バクトリア王国時代には,アイ・ハヌムからコリント式柱頭が発掘されていることが示すように,ヘレニズム美術が栄え,前2世紀末からギリシアとイランの美術が混交した〈グレコ・イラン様式美術〉が生まれた。王国滅亡後,1~3世紀には南のガンダーラから仏教美術が伝播し,テルメズTermez(ウズベキスタン領)の近辺などに多数の寺院が建立され,絵画,塑像,石彫(〈オクサス派〉)が制作された。3世紀にこの地がササン朝ペルシアに征服されると,クシャーナ朝とササン朝の美術が融合した様式が誕生し(金・銅貨,〈饗宴図〉中心の世俗的壁画など),この美術は5~6世紀のエフタル族支配下にも踏襲された。
執筆者:田辺 勝美
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報