インドに最初の統一帝国をうちたてたマガダ国の王朝。前317ころ-前180年ころ。
マウリヤ朝はナンダ朝を倒したチャンドラグプタ(在位,前317ころ-前293ころ)によって創始された。彼は都のパータリプトラで即位したのち,ただちに西北インドからギリシア勢力を一掃した。また前305年ごろシリアのセレウコス朝の軍を退けてこれと講和を結び,アフガニスタンの東半を含むインダス川西方の地を獲得した。さらに60万ともいわれる軍隊を率いてデカン方面の征服を進め,インド史上最初の帝国の建設に成功した。伝説によると,この偉業は宰相カウティリヤの権謀術数に負うところが大きいという。この宰相が著したと伝えられる《アルタシャーストラ(実利論)》は,マウリヤ朝研究の重要な史料となっている(ただし現在の形にまとめられたのは後3世紀ごろ)。またセレウコス朝の使節としてチャンドラグプタの宮廷に滞在したギリシア人メガステネスの見聞記《インド誌》は原典はすでに失われているが,断片が今日に伝えられており,これもマウリヤ朝研究の貴重な史料となっている。
第2代のビンドゥサーラ(在位,前293ころ-前268ころ)も,父王と同じく領土拡張政策を進めたようである。またその子アショーカ(在位,前268ころ-前232ころ)は,即位後8年に多大の犠牲を払ってデカン北東部のカリンガ国を征服した。ここに帝国の版図は最大となり,半島南端部を除く亜大陸全域の統一が完成した。アショーカはカリンガ戦争のあと武力征服政策を放棄し,ダルマ(法)に基づく政治を行うことを決意した。そして,この新政策を近隣諸国に伝え,またその旨を領内各地の磨崖や石柱に刻ませた。これがアショーカ王法勅と呼ばれるもので,マウリヤ朝研究の最も重要な史料となっている。ダルマとは,王を含むすべての人が守るべき基本的な社会倫理を意味している。アショーカはきわめて多様な要素から成る帝国を安定的に維持する必要から,こうした社会倫理の順守を帝国の全構成員に求めたのである。しかし,この新政策も期待どおりの成果が得られず,帝国はアショーカの死後ほどなく分裂し始め,約50年後にシュンガ朝の創始者プシュヤミトラによって滅ぼされた。滅亡の原因としては,(1)アショーカ王による仏教優遇とダルマの政治がバラモン階級を敵にまわしたこと,(2)ダルマの政治が軍隊を弱体化させたこと,(3)属州の太守が独立し帝国を分裂させたこと,(4)莫大な出費をまかなうためにとられた経済政策が失敗したこと,などが考えられている。
インド古代国家の発展は,マウリヤ朝の時代に頂点に達した。マウリヤ帝国は整備された官僚組織と強力な常備軍によって支えられており,膨大な数の官吏と兵士には国家から直接給与が支払われた。そのための巨費を得るため,マウリヤ朝は都市,村落の末端にいたる徴税網を組織し,また官営諸企業の経営や大規模な開拓植民事業を行った。しかし強力な軍事力と官僚組織をもってしても,広大な帝国の全領域にわたる中央集権的統治は不可能であった。そのためマウリヤ朝では一種の属州制を採用し,各属州に王の一族を太守として派遣している。また帝国の周辺部には半独立的な諸勢力がなお存在しており,森林地帯に住む部族民の多くも未帰順のままであった。
マガダ国の発展を支えたのは,ガンガー(ガンジス)流域に発達した先進文化であった。マガダ国はこうした文化を土台として農業,手工業,鉱産業の生産を高め,他国を圧倒する強大な軍隊を擁してマウリヤ朝のもとに帝国を建設した。帝国の統一が維持された約1世紀の間に,周辺の後進地帯における森林の開拓や鉱山の開発は急速に進んだ。またアショーカ王時代における仏教の伝播に代表されるように,ガンガー流域の先進文化が周辺地域に流れ込み各地で根を下ろした。その結果,先進地域と後進地域の経済的・文化的落差が縮小し,続く時代に亜大陸内の諸地域において,ガンガー流域をしのぐ政治的・経済的・文化的興隆がみられた。マウリヤ帝国がインド史上に果たした大きな役割はここにある。
→マガダ
執筆者:山崎 元一
マウリヤ朝美術は石材を用いた建築や彫刻が出現してインド美術が本格化する時期にあたり,ギリシアやペルシアの美術の影響が顕著である。首都パータリプトラのクムラハールで発掘された〈百柱の間〉の遺跡は,王宮がアケメネス朝ペルシアのそれにならって建設されたことを立証した。仏教徒であったアショーカ王は釈迦の遺骨を納めるストゥーパを各地に造営し,仏塔崇拝の基礎を築いたが,この時期はまだ煉瓦造であった。王はまた仏跡を整備し,記念の石柱を立てた。この石柱は総高12m前後あり,継ぎ目のない柱身に,鐘形の蓮華柱頭,円盤状の頂板,動物像をのせたもので,ワーラーナシー郊外のチュナール産の砂岩を用いている。ラウリヤー・ナンダンガルには完全な姿で現存し,サールナート出土のライオン柱頭は柱頭彫刻の白眉である。石柱上に蓮華柱頭や動物像をのせ全面を研磨して光沢をつける先例はアケメネス朝ペルシアにあり,頂板の文様や動物像の表現技法には古典ギリシアの影響が考えられる。いずれにしろインド美術の最初期にこのような完成度の高い作品が生まれたのは,外来の技法を抜きにしては考えがたい。この時代にはヤクシャやヤクシーといった守護神像もつくられた。パトナーのディーダルガンジ出土のヤクシー像は,西方の技法とインドの美意識の融合になる名品で,マウリヤ朝末期の作であろう。
これらの宮廷美術の流れとは別個に素朴な作風になる民間美術もあり,マトゥラーのパールカム発見のヤクシャ像がその代表である。またテラコッタ彫刻もパトナー周辺やマトゥラーから多数出土している。また石窟の造営もこの時代に始まり,バラーバルの石窟は,その刻文からアショーカ王がアージービカ教のために造営したことがわかる。このようにマウリヤ時代には西方世界と交渉をもった大帝国の繁栄を背景にインド美術が本格化したことがわかるが,仏教的な主題の作品が出現するのは次代以降である。
執筆者:肥塚 隆
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古代インドの王朝(前317ころ~前180ころ)。紀元前6世紀から拡大してきたマガダ王国の領土を継承して、インドを初めて統一支配した王朝。漢訳仏典では孔雀(くじゃく)王朝という。アレクサンドロス大王の北西インド侵入(前327~前325)のあと、前317年ごろ、初代チャンドラグプタ(在位前317ころ~前296ころ)はマガダ国のナンダ朝を倒して、パータリプトラ(今日のパトナ)に都して新王朝を建設した。彼はインド統一国家の完成を目ざして、北インド一帯を領土とし、ついでアレクサンドロス大王が北西インド辺境に残したギリシア人勢力を駆逐し、アフガニスタンに進出した。そこでセレウコス朝のセレウコス1世と対峙(たいじ)したが、和議によってアフガニスタン南半を割譲させた。
チャンドラグプタの統治は24年に及んだといわれ、その間に未曽有(みぞう)の大帝国を建設した。南インド征服は彼のときに始められたのであろうが、それは彼の子ビンドゥサーラによって達成されたのであろう。第3代が有名なアショカ(在位前268ころ~前232ころ)であって、彼は広大な領土を継承したうえ、即位9年目にカリンガを征服した。彼はこの征服戦争の悲惨さを反省して、仏教にいっそう帰依(きえ)するとともに、普遍的倫理(ダルマ)に基づく政治を理念として掲げて、彼自身がその実現に精力的に努力し、官吏に命じて人民の倫理遵守の徹底を期せしめた。だが彼の死後には、この政治理念は失われ、帝国は衰運に傾いた。そのあとには6人の王の名が文献に伝えられているが、彼らの事績はほとんど知られず、前180年ごろ将軍シュンガ家プッシャミトラが王権を奪い、この王朝は滅びた。
この時代は、インド史で初めて明確な年代が知られる時代であり、現存碑文はこのときから始まり、遺跡も遺物もその前代よりもはるかに多く残っている。また、セレウコス朝の使節メガステネスMegasthenesの旅行記、マウリヤ朝の宰相カウティリヤの『アルタ・シャーストラ(実利論)』といった支配体制や社会経済についての貴重な資料がある。それらによれば、この王朝の領土は、当時農業生産がきわめて発展していたガンジス中流域を中心として、その他の開発された諸地域とそれらを結ぶ交通路を支配した。王朝の権力の支柱は軍隊と官僚であって、メガステネスの記述では、軍隊は歩兵、騎兵、車兵、象兵の4軍からなり、ほかに水軍と輸送の部隊があって、その体制が整備されていた。官僚は都と地方に分かれ、地方官吏の職務は行政、司法、徴税、灌漑(かんがい)施設と道路の管理、農業技術の監督と多方面に及んだ。これによって農民を強力に支配し、貿易、商業と手工業を管理した。この王朝の統一支配のもとで領域内の各地方は開拓が進み、ガンジス中流域の高度の文化を摂取して著しく発展した。アショカのあとのこの王朝の衰退に伴って、各地方では、この発展を背景として新しい勢力が台頭する。仏教はアショカの庇護(ひご)のもとで急速に広がって、各地に僧院がつくられた。伝承によれば、アショカのときに仏典結集(けつじゅう)が行われたという。
[山崎利男]
『山崎元一著『アショーカ王とその時代』(1982・春秋社)』
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前321~前181頃
古代インド最初の統一帝国。チャンドラグプタがナンダ朝を滅ぼして創始した。最盛期である第3代のアショーカの時代には,最南端を除くインド亜大陸・半島の大半とアフガニスタン南半を支配下に置いた。強大な常備軍と整備された官僚機構を備え,灌漑などの大規模事業を行い,生産力を増大させた。マガダ国を中心とする本拠地を集権的に統治する一方,各地方の都市には王族を太守として派遣した。広大な支配地域内には森林の部族民などの独立的勢力も存在しており,その支配は画一的ではなかった。この王朝のもとでは,ガンジス川流域の先進地域から周縁へ文化が伝播し,デカンやカリンガなどの周縁地域における国家形成への基礎がつくられた。また,アショーカによる保護もあり,仏教が各地に広まった。アショーカの死後,各地の地方統治者などの独立により帝国は分裂し,最終的にシュンガ朝の創始者プシュヤミトラにより滅ぼされた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…王は農業の拡大を背景として権力を増し,それまでの部族的束縛を破って,都城を築き,自己の軍隊と官吏をもって領域を支配した。その中でマガダ国は近隣諸国を併合して最も有力な国家となり,その国家体制を完成させたのがマウリヤ朝の古代統一国家である。この発展過程で,ヒマラヤから大洋に至る広大なインド亜大陸はひとつの世界として意識され,ひとりの国王(チャクラバルティンCakravartin,転輪聖王(てんりんじようおう))が支配するのが理想とされた。…
…古代インド,マウリヤ朝の創始者。在位,前317‐前293年ころ。…
※「マウリヤ朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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