パンジャーブ(読み)ぱんじゃーぶ(英語表記)Punjab

翻訳|Punjab

日本大百科全書(ニッポニカ) 「パンジャーブ」の意味・わかりやすい解説

パンジャーブ
ぱんじゃーぶ
Punjab

インド北部およびパキスタン中北部のインダス水系中流域の地方名。インダス川の五つの支流、ジェラム、チェナブ、ラービ、ビアス、サトレジの各川が流れ、五河地方と称される。ヒマラヤ山地の山麓(さんろく)から緩傾斜する広大な沖積平野で、山麓近くでは1000ミリ近い年降水量があるが、大部分は600ミリ以下の半乾燥~乾燥地帯である。そのため、古くから春の融雪水や夏のモンスーン増水を利用した溢流灌漑(いつりゅうかんがい)が行われていた。近代的灌漑用水路によって恒常灌漑が可能になったのは、1859年にラービ川から取水した上部バリ・ドアブ用水路がつくられてからで、それ以降20世紀初期にかけて五河の水を余すところなく利用する大規模な灌漑組織が建設され、インド有数の農業地帯となった。1947年のインドとパキスタンの分離独立の際、パンジャーブ地方は両国に分割され、同名の州が両国に置かれることになった。しかしこの分割は灌漑組織を無視して線引きされたため、両国間に水争いが生じ、1960年の水利協定成立まで続いた。協定成立後、ラービ、ビアス、サトレジの東部三川の水を得たインドは、ハリアナ州とラージャスターン州に達する大用水路を建設、一方パキスタンも従来利用していなかったインダス川本流の活用を大規模に進めている。こうした灌漑組織の整備を土台に、二つのパンジャーブ州では「緑の革命」を進展させ、それぞれインド・パキスタン両国のもっとも重要な穀倉地帯となっている。農業の発展に伴い、農産物の集散とその加工、さらに化学肥料、機械などの工業が立地し、農村中心の都市が数多く発達している。

[藤原健蔵]

歴史

地名の語源はペルシア語の「五つの川」panj-āb、つまりインダス川東部の五大支流とその流域のことで、歴史的にはインダス川本流からヤムナー川までの地域をさすことが多い。インダス文明の北部中心地で、ハラッパー遺跡がある。紀元前1500年ごろ北西方からアーリア人が移住し、ヒンドゥー教最古の聖典リグ・ベーダ』を成立させた。前6~前4世紀にイランのアケメネス朝の属領であり、前4~前3世紀のマウリヤ朝下に仏教が広まった。前3~前1世紀にギリシア系バクトリア、イラン系サカ、パルティアの支配、後1~3世紀にクシャン朝が隣接のガンダーラ地方を本拠に中央アジアに及ぶ大帝国を形成し、シルク・ロードの遠隔地貿易を基礎にしてヘレニズム様式の仏教美術などガンダーラ文化を生んだ(北部にタキシラ遺跡)。3~4世紀にイランのササン朝の属領、4~7世紀にグプタ朝、ギターラ朝、フン人、シャーヒー朝の支配で仏教は衰退した。8世紀初めに南部をシンドのアラブ政権が、11世紀初めに全域をアフガニスタンガズナ朝が征服、以来18世紀なかばまでムスリム(イスラム教徒)諸王朝が支配し、西部でイスラム化が進行、ラホールが政治・文化の中心地として発達した。この都市の近くで15世紀末ごろにシク教が成立、1765年にシク政権が樹立されたが、1845~49年の対イギリス戦争に敗れ、イギリス植民地の一州となった。1947年のインド・パキスタンの分離独立で、ヒンドゥー、シクの多い東部がインド領、ムスリムの多い西部がパキスタン領に分割され、前者は66年にパンジャーブ語のパンジャーブ州、ヒンディー語のハリアナ州に再編された。

[浜口恒夫]

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