インド科学(読み)いんどかがく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「インド科学」の意味・わかりやすい解説

インド科学
いんどかがく

古代インドで、学術書とよばれていたものは、ビンテルニッツM. Winternitz(1863―1937)によれば、文典学、辞典、哲学、律法論、実利論、情事学、医学天文学占星術、数学であった。このなかで自然科学に属する学問は天文学、数学、医学である。物理的な自然学は哲学のなかで論じられ、一つの独立した学問になりえなかった。紀元前600年ごろから前200年ごろに学問の分化が始まった。ベーダの補助学として6学問がおこった。自然科学に関係した学問は暦法学と祭事学の一分科『シュルバスートラ(紐(ひも)の原理)』Śulva-Sūtraである。暦法学はバビロニアの影響を受けた初歩的な暦法を記している。『紐の原理』は祭りの祭壇をつくるために必要な幾何学的方法を述べている。このように始められた天文、数学は499年に著された『アーリアバティーヤ』Āryabhaīyaによって初めて体系化された。また、医学は古くから尊ばれ、のちにアーユルベーダĀyur-vedaといわれ、ベーダの一分科と考えられるようになった。2~3世紀ごろに『チャラカ・サンヒター(チャラカ本集)』Caraka-sahitā、『スシュルタ・サンヒター(スシュルタ本集)』Suśruta-sahitāが成立し、医学が初めて体系化された。錬金術は医学の一分科として発達し、8世紀ごろには独立した錬金術書、『ラサラトナーカラ』Rasaratnākaraが著された。一方、哲学のなかで論じられた物理的な自然学は原子論および運動論であった。紀元前2世紀ごろから哲学界では、バラモン教典を発展させた六派哲学が現れ始めた。この六派哲学のうち、バイシェーシカ哲学はインドにおける自然哲学の最大の学派で、その書物のなかに原子論と運動論が書かれている。以後、哲学界では仏教、ジャイナ教、六派哲学が栄えた。

 13世紀以後、イスラム教徒の侵入やインド内部の争いなどから国が疲弊し、科学はあまり発展しなかった。それまでに発達した数学はイスラムを経てヨーロッパへ伝わった。とくにインド数字と十進法による位取り法はヨーロッパ文明に大きな影響を及ぼした。

 インドの科学は独立した学問としては、実用的な天文学、数学、医学が発達し、さらに医学、哲学に付随して錬金術、原子論、運動論が存在した。これらの科学の発展および特質はさまざまであり、以下分野別に記述する。

[大網 功]

原子論・運動論

古代インドにおいて、原子論がいつごろから現れたかさだかでないが、原子論的な立場から物質を考察した人々は主として、ジャイナ教、仏教、六派哲学のなかのニヤーヤ・バイシェーシカ学派の三つの派に分かれていた。これら3派の人々は物質を順次細分割したとき、最後には分割しえないものに到達すると考え、この究極的なものをパラマーヌparamau(極微)とよんだ。この極微は突き通すことも壊すこともできないものであった。極微の存在する場としてアーカーシャakāśa(虚空)が考えられた。原子論をもっとも発展させたニヤーヤ・バイシェーシカ学派、とくにバイシェーシカ学派の原子論を述べると、彼らは、地・水・火・風の4種の極微を考えた。これらの極微は、色・味・香り・感触・重さ・流動性などの属性のいくつかを有し、アドリシュタadaという神秘的な力によって結合される。物質を構成する要素は同種の極微2個からつくられたドブヤヌカdvyauka(二微果)で、この二微果が三つ結合したもの、四つ結合したものが、それぞれ三微果、四微果とよばれた。このようにして順次大きな物質が構成される。物質の構成に関して、究極粒子として極微の存在を述べたインド原子論であるが、それを使って自然現象を統一的に説明しようという論理には至らなかった。

 バイシェーシカ学派の運動論は、物体の運動のみならず、人間の行為まで含めた広い意味での運動(カルマンkarman)まで論じた。この学派は自然界を経験的に分析し、実体、性質、運動、普遍など六つの範疇(はんちゅう)に分けた。運動の範疇では運動そのものを論じ、運動を生ずる原因とか、止める原因は他の範疇に入れた。したがって運動そのものが他の運動を生み出すことはありえないという立場をとり、運動は瞬間的なもの、とした。また連続的な運動は瞬間的運動が次々に発生することで生ずると考えた。瞬間的運動は、上昇、下降、屈曲、伸張、進行の5種に分類された。これらの運動が生ずるためには、結合、意志的努力、重さ、サンスカーラsaskāra(潜勢力)などの一つあるいはいくつかが必要であるとした。ここにいう意志的努力とは運動をおこさせようとする人間の内因である。潜勢力の一つベーガvegaは、物体の運動が人間や弓などの推進力または他の物体との衝突によって生ぜられたとき、その物体に生じた一種の惰性のようなもので、運動を一定方向へ継続させるに必要な能力であり、物体が自然の力に抗して運動する場合に、このベーガはしだいに消耗していくと考えられた。このように投射体の運動を説明したベーガ理論は、中世ヨーロッパの投射体の理論、すなわち投射体に原動者から込められた駆動力インペトゥスimpetusがあることによって運動が持続され、またインペトゥスが媒体の抵抗などによって消耗されるときなくなるというインペトゥス理論に比較すべきものとされている。

[大網 功]

天文学

インドの天文学を時代別にみると、第1期(前1000~前400)ベーダ時代、第2期(前400~後200)バビロニア要素の時代、第3期(200~400)バビロニア、ギリシア両要素を含んだ時代、第4期(400~1600)ギリシア要素の時代、第5期(1600~1800)イスラム要素の時代、となる。そして、第1期を除いた各時期にいろいろな方法が西方からインドに伝わってきた。第4期にギリシアから伝えられた天文学はプトレマイオス以前の天文学であったが、インド人は受け入れた数理天文学を固有のものにつくり変えてしまった。この期のおもな天文学の書物は499年の『アーリアバティーヤ』、628年の『ブラフマースプタ・シッダーンタBrahmasphua-siddhānta、12世紀なかばの『シッダーンタシロマニ』Siddhāntaśiromaiなどである。これらの書物によれば、インド化された天文学では、惑星の運動について、ヒッパルコスが周転円で解決させた問題を、周転円の中心である同心的誘導円の上に引き直して求め、そのために非常に複雑な計算を行ったという。そうしたこともあって、インド天文学は計算技術は改良されたが、理論的にはあまり発展を示さなかった。プトレマイオスの天文学がインドに入ったのは、イスラムからアラビア語訳が伝えられた18世紀であった。

 インド天文学が発展しなかった理由についてピングリーD. Pingree(1933―2005)は次のようにいっている。「インド人は非常に保守的で、従来の伝統を保持しようとした。したがって、新しい方法の導入によって従来の方法を最小限の変更にとどめ、新しい方法と併存させた。新旧の調整は完全になされず、いつも不一致点が存在したが、この不一致についてインド人は無関心であった。さらに、当時のテキストは韻文からなっており、暗記すべきものとして、簡潔に書かれていた。また、当時の韻律にあわせるため、計算式の重要な部分が省略されたり、用語があいまいに使われていることがしばしばあった。そのためテキストは理解しがたく、注釈をつねに必要とした」。

[大網 功]

数学

インドでは古くから『紐(ひも)の原理』にみられる幾何学的方法が存在したが、数学が学問として成立するのは5世紀以降であった。このインド数学はおもに天文学に付随して発達したため、実用算術、代数学および三角法が進歩した。499年の天文書『アーリアバティーヤ』は、インドで初めて数学を体系化し、ギリシアから伝わった弦の表を正弦値と同概念の表に発展させた。以後、代数的な計算術は数学の著作あるいは天文学に付随した数学の章で論ぜられた。また、三角法は天文計算に必要なことから天文学の章で発展させられた。代数的計算術において、628年の天文書『ブラフマースプタ・シッダーンタ』によって、インド数学の二大分野であるパーティーガニタPāīgaitaとビージャガニタBījagaitaとの分化が始まった。前者は実用的で、類型化された問題の計算技術が記されており、加減乗除、平方、比例計算などの基本演算と平面図形、堆積(たいせき)物などの実用演算とからなっていた。後者はおもに方程式を取り扱う分野で、正数、負数、零の演算を含み、未知数記号に相当する文字を用い、代数演算を自由に行っている。12世紀なかば、天文学者・数学者のバースカラ(ブハースカラ)2世Bhāskara (Ⅱ)の著作『リーラーバーティー』Līlāvatīおよび『ビージャガニタ』によってインド数学は集大成され、最高に達した。その後、あまり発展せず、これらの本の注釈がおもに書かれた。

 インド数学、とくにインド数字、十進法位取り、零の四則算法、方程式論はイスラムを通じて、ヨーロッパへ伝わった。また、三角法はイスラムでさらに改良された。

[大網 功]

医学・錬金術

医学はインドで古くから尊重され、2~3世紀ごろに『チャラカ本集』『スシュルタ本集』が成立し、体系化された。これらの書物によれば、医学は外科的療法、目・耳・鼻の療法、内科的療法、物の怪憑(もののけつ)きの治療法、育児学、解毒法、不老長寿の法、強精法の8支科からなっていた。そして病気に関しては、次のような理論が考えられた。身体の構成要素中もっとも重要な要素はバータvāta(風)、ピッタpitta(熱・胆汁性のもの)、カパkapha(冷・粘液性のもの)の3要素で、これらの平衡の乱れによって病気がおこるとされた。したがって治療は、この3要素の平衡が保たれるように行われた。このような医学はインドで、アーユルベーダとして現在も存続している。

 インドの錬金術は、初め医学の一支科として発達し、8世紀ごろから中世の宗教書『タントラ』を奉ずる人々によって発展させられた。この一派においては、錬金術は解脱(げだつ)の補助手段として考えられた。この錬金術は水銀rasaの魔力によって、鉛、スズなどを銀または金に変換せしめ、また不老長寿の薬をつくらしめる術であり、したがって、水銀はシバ神が乗り移った物質として非常にあがめられた。このような錬金術は中国起源といわれている。この錬金術の発展過程で、いろいろな金属の精製や蒸留、昇華法など化学的知識がしだいに蓄積され、14~15世紀ごろ、この錬金術でつくられた薬物の実際の医療効果が追求された。

[大網 功]

『ヴィンテルニッツ著、中野義照訳『インドの学術書』(1973・日本印度学会)』『矢野道雄編『インド天文学・数学集』(1980・朝日出版社)』『L・ルヌー、J・フィリオザ著、山本智教訳『インド学大事典』(1981・金花舎)』

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