翻訳|atomism
自然はそれ以上分割できない微粒子(原子)と真空からできているという基本的自然観の一つ。自然の連続説に対する不連続説、目的論に対する機械論、観念論に対する唯物論の立場にたつ。紀元前5世紀の古代ギリシアでレウキッポスと弟子のデモクリトスが初めて唱えた。タレスらの一元論が、パルメニデスによって論理的批判を浴び、世界は均質で不変であると説かれたのち、現実の生成消滅を擁護するために考えられた多元論で、原子はパルメニデスの「有るもの」と同じく一様で不変の実質をもつが、大きさと形状のみが異なる。無数の原子が無限の空虚を動き、衝突により鉤(かぎ)ホックのように機械的に結合あるいは分離し、世界の諸変化が生じる。物体の差異は原子およびその配列の違いのみによる。こうした古代原子論は部分的変更(たとえば機械的結合のかわりにI・ニュートンによる力、多種の形状のかわりにJ・ドルトンの球状など)を受けながらも、一様な実質をもつ不可分・不変の原子という基本概念を維持し続けた。この説は観念論的元素説論者のアリストテレスによって反対され、古代ではエピクロスおよびその学派が道徳哲学の基礎として受け継いだだけであった。
アリストテレス学説が風靡(ふうび)した中世イスラムおよびヨーロッパでも原子論は衰微したままであったが、微粒子概念はアリストテレス説にも潜在的に含まれており、スコラ学者たちは自然の最小粒子(ミニマ)についてさまざまに論じた。ミニマはそれ自体性質をもち、物体の変化は構成ミニマの内的変化によるものであり、原子とは異なるが、時代が下ると原子論との混交がおこった。ルネサンス期には人文学者たちによる古代原子論の翻訳や紹介の結果、粒子論や原子論が流行した。フランスの司祭ガッサンディによるエピクロス説の紹介(1649~)は、トリチェリの真空の発見(1643)もあずかって原子論の普及に力があり、R・ボイルらに強い影響を与えた。原子とマクロな物体の間に比較的安定な粒子集合を想定するボイルの階層的粒子構造説は、後の原子・分子説の先駆をなすものであった。
一方、古代において原子論と対立した元素説も、化学反応の間にも変化を被らずに保存されるものがあると化学者たちが考え始め、原子論に接近していった。オランダのゼンナートの、四元素に対応した4種の原子あるいは粒子の想定はその現れである。
しかし、元素説と原子論の完全な結合は、四元素説を払拭(ふっしょく)した近代的元素説の誕生後であった。1803年にイギリスのドルトンは、ラボアジエの諸元素に原子を、化合物に分子(複合原子)を対応させ、それぞれの相対重量を算出した。ここに初めて、異種原子の規定がほぼ実証的に重量によってなされたのである。この結果、哲学的傾向の勝っていたこれまでの原子論は、科学の名に値するものになり、ラボアジエの元素説とともに化学を一新し、実り豊かな成果をあげることとなった。スウェーデンのベルツェリウスは精確な原子量決定の努力を長年続けた。
しかし、分子中の原子数を決定する一貫した根拠を欠いたため、倍数比例則などの傍証にもかかわらず、原子論への懐疑が化学者の一部にあり、原子量のかわりに当量を用いる者も現れた。単体における多原子分子の想定によって、ゲイ・リュサックの気体反応の法則と原子論とを調和させたアボガドロの仮説(1811)はこの問題を解決するはずであったが、実証性に欠けていると考えられた。この世紀に新しくおこってきた有機化学において、原子量が不確定なために、一つの化合物の分子式がさまざまに決められ混乱が生じた。この問題を解決するためにドイツのカールスルーエで開かれた国際化学者会議(1860)の閉会後に配付されたカニッツァーロの論文別刷はアボガドロの仮説に実証性を与え、ついに原子量問題に決着をつけた。この結果、すでに生まれつつあった原子価概念が明確になり、有機化学構造論の発展、J・L・マイヤー、メンデレーエフによる周期律の発見(1869)が引き続いた。後者は、「諸元素の化学的性質と物理的性質は原子量に周期的依存性をもつ」(メンデレーエフ)ことを明らかにしたもので、ドルトンの開始した元素と原子の統一を、その本質解明は20世紀を待たねばならなかったが、名実ともに完成したものである。
原子論は他の分野でも成功を収めた。とりわけ、気体分子運動論は化学の一学科をつくりあげるとともに、統計熱力学の端緒となった(ボルツマン)。原子論に基づくブラウン運動の解明、ことにアインシュタインの拡散方程式の実験的検証は、原子論への懐疑を一掃した。
19世紀末の電子および放射能の発見に始まる20世紀の原子科学は、不可分・不変と考えられた原子が内部構造をもち、他に転換しうることを明らかにして、原子論を歴史的概念に変える一方、自然の一階層としての原子の存在を証明した。中世ヨーロッパで流行した「錬金術」すなわち、高価な金を化学的反応でつくりだそうという試みは、原理的に不可能であることが明らかになった。元素を変換する錬金術は現在では、採算は合わないとしても原子核反応を用いて行うことは可能である。原子力発電の使用済み燃料の放射能処理への応用も検討されている。それ以上分割できない微粒子、あるいは自然の最小粒子という概念は、原子を構成する電子と原子核へ、さらに原子核を構成する陽子と中性子や湯川の中間子などの素粒子の発見への原動力となった。現在では、さらに素粒子を構成する最小単位としてクォークquarkの存在が確立している。
[肱岡義人・阿部恭久]
インドでは古くからさまざまな要素(元素)説が展開されてきたが、紀元前後以降、論理的反省が加えられ、原子論が形成された。原子論は、とくに仏教のアビダルマ学者、ジャイナ教徒、ニヤーヤ、バイシェーシカ両学派によって主張された。ニヤーヤ、バイシェーシカ両学派によれば、すべての物質は地水火風という要素から構成されているが、それぞれの要素は無限に分割できるわけではない。もしも無限に分割できるならば、巨大な山も、微小なケシ粒も、ともに無限の部分からなることになり、大小の比較の根拠がなくなってしまうからである。そこで、もはやそれ以上分割ができない基礎単位があることが要請される。この基礎単位が原子である。したがって、原子は部分を有しない、つまり他のものによって構成されないから永遠に不滅である。原子が2個で二原子体、二原子体が3個で三原子体というようにして、世界のあらゆる物が構成されるのであるが、われわれの肉眼で見ることができる最小のものは三原子体であるという。
[宮元啓一]
『B・スコーンランド著、広重徹他訳『原子の歴史』(1971・みすず書房)』▽『江沢洋著『だれが原子を見たか』(1976・岩波書店)』▽『古川千代男著『物質の原子論――生徒と創造する科学の授業』(1989・コロナ社)』▽『化学史学会編『原子論・分子論の原典』1~3(1989~1993・学会出版センター)』▽『西川亮著『古代ギリシアの原子論』(1995・渓水社)』▽『板倉聖宣著『原子論の歴史 上――誕生・勝利・追放』『原子論の歴史 下――復活・確立』(2004・仮説社)』
物質を分割していくと,それ以上分割できない究極・最小の単位すなわち〈原子〉に到達する,という説を原子論の定義として採るとすれば,後述されるように古代インドにも原子論は認められる。しかし以下のような,ギリシア=ヨーロッパの原子論(アトミズム)の伝統のもつもう一つの論理的特徴はもたないと考えられる。ギリシア原子論ではレウキッポスとデモクリトスという二人の名が結び付けられる。物質が〈粒子〉から成るとする考え方は,むしろギリシアに一般的であるが,デモクリトスの完成したといわれる原子論は次の基本的な特徴を備えている。(1)物質は不連続であり,真空と不可分割体(アトム)からなる。(2)原子は感覚的性質を備えていない。物質の示す感覚的性質のいっさいは,感覚的性質をもたない原子のふるまい,状態から生じる。(1)については,不可分割体を前提とする以上,論理的に,物質には,不可分割体の〈存在〉するところと,何ものも〈存在〉しないところ(ギリシア語でmē on)とが〈存在〉しなければならない,という主張が含まれる。この主張を明確にしたという点で,デモクリトスの原子論は特徴的であると同時に,〈存在〉の否定としての〈真空mē on〉の〈存在〉を否定するギリシアの一般的了解からいえば,ひじょうに異端的であった。(2)では,いわゆる還元主義がそこに現れることに注目しよう。色,味,におい,香りなど物質の感覚的性質は,文字どおりいろいろ,千差万別であるが,そのすべてを,そうした性質をもたない原子のふるまいに還元する(つまり,多を一にもしくはごく少数に減らす)のである。したがって,原子は,感覚に頼るのではなく,悟性に従って初めてつかまれる概念であり,また,原子のもつ性質は,〈存在〉として悟性が要求する重さ,大きさ,形,そして運動以外にはありえないことになる。これは,のちにガリレイや,イギリス経験論によって与えられた〈第一性質〉〈第二性質〉の区別に先行的に相当する。こうしたデモクリトスの原子論はすでに述べた真空の容認という点でも,また還元主義の背後にある徹底した唯物論という点でも,ギリシアでは受け入れられがたかった。プラトン,アリストテレスはともにデモクリトスを厳しく批判している。したがって,古代世界のなかで,デモクリトスの原子論を継承したのは,快楽主義者として知られるエピクロスと,そのエピクロス礼賛の頌歌を書いたローマの詩人ルクレティウスを除くと,ほとんど皆無だったといえる。
15世紀のルネサンスの波とともに,異教的なものの復活の時代が訪れた。人文主義者たちは,ルクレティウスの《物の本性について》を愛読書とした。そして,フランスの機械論者で反アリストテレス主義者P.ガッサンディの手になる《哲学集成》(1658)の中でエピクロス的原子論が熱っぽく紹介される。ガッサンディのよき論敵デカルトは,機械論的な側面を共有していたものの,真空を認めぬ点で,遂に原子論を容認するに至らなかったが,ガッサンディによって公的に復活した古代原子論は,たちまちヨーロッパの知識人の心をとらえた。錬金術的な世界にあったR.ボイルのような人物も,原子論の論理に強くひかれた。それは,人間社会を〈個人individual〉のふるまいの総和としてとらえ,また,個人の働きを政治や倫理,さらにプロテスタンティズムの場合のように,宗教においてさえ根源とするような個人主義が急速に発達しつつあった17世紀後半のヨーロッパの状況と決して無関係ではない。ギリシア語に由来するatomとラテン語のindividuus(individualの語源)とはまったく同じ意味,すなわち〈分けられないもの〉であることに留意しよう。
もっともこうした段階での原子論は,まだ形而上学的な意味合いにとどまっていた。18世紀末,いわゆる化学革命を実行して,近代的化学の成立に貢献したラボアジエでさえ,原子の概念をまじめに取り扱ったとはいえない。しかしラボアジエの定立した元素の背後に具体的に原子を当てはめ,それらの相対的な重量比を導入し,原子どうしの結合や分離によって,化学反応をとらえるという,ドルトンの新体系(《化学哲学の新体系》)こそ,今日の原子論を基盤にした化学の出発点だったといえる。その後19世紀末に,いわゆる原子がそれ以上分割し得ない究極粒子ではなく,その内部構造を問題にしなければならないことを示す証拠が数多く現れた。電子をはじめとする原子内粒子,すなわち素粒子は,そうした証拠を説明するために導入された新しい原子概念だったといってよい。さらに,素粒子レベルの現象を記述するために生まれた量子力学の展開は,素粒子が,デモクリトスの原子のように,ある空間中に確立した嵩(かさ)と重さをもって存在する物質粒子というよりは,空間(場)そのものの一種の局所的表現であるとでもいうべき新しい解釈を生んでいる。そのうえ,通常の素粒子さえ究極粒子ではなく,その下にクォークなる基本粒子を想定するという立場が有力である。物理学者は,諧謔もあって,クォークのもつ性質にわざわざ〈カラー(色)〉とか〈フレーバー(香り)〉などという名前をつけて,第二性質を与えるかに装っている。結局のところ,ヨーロッパの近代科学,とりわけ物理学の歴史は,原子論の論理をいかに貫徹させるか,という試みの積重ねであったということができよう。
執筆者:村上 陽一郎
原子論はインドでも古くからあったが,その初めと考えられるのはジャイナ教のそれで,事物のあり方に微小体・複合体としてのあり方を考え,前者がアヌanuすなわち原子で,空間の一点を占め運動と結合との力があってしだいに複合物を形成するとした。その後は正統婆羅門(バラモン)(学派としてはおもにミーマーンサー学派)以外の一般思想界で実体規定の基調をなすものとしてひろくおこなわれた。バイシェーシカ学派の原子論についてみると,この派は地,水,火,風の四つを実体としてとりあげるが,この四つにはそれぞれ異なる原子があっていずれも無数に存在し,同質の原子とのみならず異質の原子ともよく結合するとし,それぞれの実体に固有の属性をもたせる。原子は直接知覚によってはとらえられぬが不変不滅のものであり,その最初の運動は人間の知りえぬある力によっておこるとした。この原子論を体系づけたのが6世紀のこの派の哲学者プラシャスタパーダで,彼はその著《句義法綱要》のなかで,実体の大きさについて原子が不可分割の最小単位で不変不滅のものであると規定し,変化し滅することのあるものはすべて2原子体dvyanukā以上のものと名づけた。そのほか運動結合の力などについては古来の説を集成したものである。なお,仏教徒はその小乗有部(うぶ)の哲学で色法(もろもろの存在)形成の基底に,ベーダーンタ学派はその哲学の中心たる個人我(アートマン)存在の様態の説明にやはり原子論をとっている。極微(ごくみ)は漢訳仏典が原子anu(paramāṇu)に与えた訳語である。
→原子
執筆者:蒔田 徹
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…原子と訳される。レウキッポスやデモクリトスによって代表されるギリシアの原子論哲学が提出した用語。〈切る〉を意味するギリシア語の動詞temneinと否定の前綴aとからなる形容詞atomos(切られない)に由来し,単数ではatomon,複数ではatomaと呼ばれた。…
…原子論と快楽主義で有名な古代ギリシアの哲学者。サモス島の生れ。…
… 古代ギリシアにおいてすでに,自然を物質的要素から構成されているものとして見る態度があった。ソクラテス以前の自然哲学がそれであるが,とくにデモクリトスを代表とする原子(アトム)論は要素の形態と配列と位置の相違によって事物の質的変化や生成消滅を説明し,魂をも一種の火であって球形のアトムであるとした。それは自然自体の中に目的を認めず自然を有機体と見ない点で機械論であったといってよい。…
…そして前5世紀のエンペドクレスは,火・空気・水・土の四元素=四大説を唱えるに至った。もっともデモクリトスのアトムatom論にみられるような原子論も展開された。しかし四元素の考えが,プラトン,アリストテレスという両哲学者により,世界構築の素材要因として受け入れられたことから,元素論は四元素という形で後世に受け継がれた。…
…その分割可能な最小単位を原子(パラマーヌparamāṇu)というが,原子の状態では知覚できない。ジャイナ教はインドで原子論を説いた最初の学派である。善悪の行為から生ずる業(カルマkarma)も物質とみなされる。…
…その意味では,現実のこの世からは一歩退いた無為の(つまり人間とのかかわりを直接的にはもたない)領域に属するといえる。機能的にはよく似たとらえ方がギリシアの原子論にある。デモクリトス,エピクロス,ルクレティウスという系譜をたどる西洋古代の原子論では,物質は究極的に,それ以上分けることのできない粒子(原子=アトム)にまで分割できるが,その最終的な物質単位は,論理的に,離散的な存在である(もし離散的でなく,連続的ならば,さらに分割が可能なはずであって,そのことは,原子の定義に反する)から,原子と原子との間には,もはや,いかなる物質も存在しない空虚な空間が存在しなければならない。…
…イギリスの化学者,物理学者。化学的原子論を唱え,哲学的傾向の強かった原子論を科学に高める。カンバーランド州イーグルスフィールドの半農半工の家の出。…
…なぜなら,空間は,物質を容れる器のごとく,物質の存在を可能にするのに必須なものではあり,しかもそれ自体としては,人間の感覚によって覚知されるものとはならないからである。 こうした近代主義的立場に立って眺めてみると,古代においてこうした物質観に最も近いのはデモクリトスの原子論である。デモクリトスの原子論では,原子は感覚的性質をもたずに,容器としての空間のなかにあって,ひたすら運動をしていると考えられている。…
…第1に彼らは例外なく,依然として自然学を聖なる構造のなかで(つまりキリスト教神学の有機的一部として)とらえており,第2には,彼らの多くはルネサンスの自然観に濃厚に浸されていて,ニュートンの体系でさえ今日の物理学の性格とはおよそ異なった神秘的な要素を色濃くもっていた。自然
[原子論的発想と力学]
しかし,18世紀以降しだいにあらわになる〈物理学的〉(と呼びうる)な態度は,前代のそうした人々の仕事のなかのある特定の部分を誇張し選別して凝縮した結果として成立したものであるといえよう。ここでいう〈物理学的〉態度とは,おおまかにいえば二つに分類される。…
…ミレトス生れとも,エレア生れとも言われている。初めエレアのゼノンの弟子としてエレア学派から出発したが,後に同派を真っ向から批判する原子論を提唱したことで知られる。エレア学派は万有が〈一〉であり,それは生成消滅も運動もしないと考えたが,彼は史上初めて永遠に運動する無限の要素が存在し,その離合集散によって生成消滅や運動が起こるとして,その要素に〈原子〉(アトム)という名を与えた。…
※「原子論」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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