ウッズ(読み)うっず(英語表記)Robert Archey Woods

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ウッズ」の意味・わかりやすい解説

ウッズ(Phil Woods)
うっず
Phil Woods
(1931―2015)

アメリカのジャズ・サックス、クラリネット奏者。本名フィリップ・ウェル・ウッズPhilip Wel Woods。マサチューセッツ州スプリングフィールドに生まれ、少年時代に天才的アルト・サックス奏者チャーリー・パーカーのアルバムを聴いてジャズ・ミュージシャンを目指すことを決意し、叔父の形見のアルト・サックスを手に練習を始め、地元のバンドで演奏する。

 1948年ニューヨークに出て、「クール・ジャズ」の巨匠である盲目の白人ピアニストレニー・トリスターノ門下生となる。その後ジュリアード音楽院で4年間サックスとクラリネットを学び、卒業と同時にギター奏者ジミー・レイニーJimmy Raney(1927―1995)がリーダーのセッションにアルト・サックス奏者として参加し、レコーディングを行っている。そして1955年には非常に完成されたスタイルのリーダー・アルバム『ウッドロア』を録音し、パーカー派白人アルト・サックス奏者としての地位を確立させる。

 1956年、ディジー・ガレスピーのビッグ・バンドに参加、同年白人ビ・バップ・ピアニストであるジョージ・ウォリントンGeorge Wallington(1924―1993)のバンドに、アルト・サックス奏者ジャッキー・マクリーンの後がまとして加わる。ちなみにマクリーンもまた、パーカーの強い影響を受けたミュージシャンである。1957年、同じくパーカー派白人アルト・サックス奏者ジーン・クイルGene Quill(1927―1989)と2アルトのグループを結成、『フィル・トークス・ウイズ・クイル』を録音する。

 1960年代はリーダー・アルバムに恵まれなかったが、1967年ヨーロッパに渡り、翌1968年現地のミュージシャンと「ヨーロピアン・リズムマシーン」を結成、アルバム『フィル・ウッズ&ヨーロピアン・リズム・マシーン』を発表、ファンに新生ウッズ誕生を印象づける。このときのサイドマン、ピアノのジョルジュ・グルンツGeorge Gruntz(1932― )、ベースのアンリ・テキシェHenri Texier(1945― )、ドラムのダニエル・ユメールDaniel Humair(1938― )は、後にヨーロッパ・ジャズ・シーンの中核をなすミュージシャンとなる。このグループで数枚のアルバム制作をした後、1972年アメリカに戻り、1974年にアルバム『ミュージック・デュ・ボア』を録音。

 1970年代はピアニスト、アレンジャーのミシェル・ルグランと共演したり、大編成オーケストラをバックにアルバムを吹き込むなど、新たな試みに挑戦する。1980年代はトランペット奏者トム・ハレルTom Harrell(1946― )を加えたクインテットで多くのレコーディングを行う。1990年代に至っても人気、実力とも充実し、アメリカのジャズ雑誌『ダウン・ビート』Down Beatにおける人気投票では第1位に選ばれている。従来、白人ジャズマンはテクニックは優れていても、黒人的なエモーションを表現するのは難しいといわれていたが、ウッズは完璧な演奏技術とジャズ的な情感の発露を両立した。これは彼のジャズ観の原点に偉大な黒人アルト・サックス奏者であるパーカーがあったことと無縁ではない。ちなみに彼はパーカーの未亡人と結婚している。

[後藤雅洋]


ウッズ(Robert Archey Woods)
うっず
Robert Archey Woods
(1865―1925)

アメリカの社会事業家。ピッツバーグ生まれ。1890年にロンドンのスラムにある有名なセツルメントトインビー・ホールで社会問題を研究。1891年に帰国後、ボストンで初めてのセツルメントであるアンドーバー・ハウスの初代館長となった。死に至るまでこの仕事に従事。全米セツルメント連盟結成の発起人となり、1923年にはその議長に就任。強い信仰をもつキリスト者としてアンドーバー神学校大学院、ケンブリッジ聖公会神学大学院で社会経済、社会倫理を教えた。1920年(大正9)来日。著作に『イギリス社会運動』『セツルメントの地平線』がある。

[小倉襄二]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ウッズ」の意味・わかりやすい解説

ウッズ
Woods, Tiger

[生]1975.12.30. カリフォルニア,サイプレス
アメリカ合衆国のゴルフ選手。本名 Eldrick Woods。アフリカ系アメリカ人の父とタイ人の母との間に生まれた。天賦の才に恵まれ,3歳のときに 9ホールを 48打でまわった。1991年全米ジュニア・アマチュア選手権大会に史上最年少の 15歳で優勝し,1992,1993年も同大会を制した。1994年スタンフォード大学に入学,1996年に同大学を中退してプロに転向する。この間に,全米アマチュア選手権大会 3連覇,全米大学体育協会 NCAAの選手権大会優勝を果たした。プロ転向の 1996年に全米プロゴルフ協会 PGAツアー新人王を獲得。1997年,マスターズトーナメントに初出場し,アフリカ系アメリカ人として,またアジア系のゴルフ選手として初めて優勝した。マスターズ史上最少ストロークの 72ホール 270打を記録し,2位と 12打差をつけた。PGAツアーの記録を次々と塗り替え,2000年に全米オープンゴルフ選手権大会全英オープンゴルフ選手権大会全米プロ選手権を制し,続く 2001年のマスターズトーナメント優勝により,史上初の 4大会連続優勝を達成した。2002年もマスターズを制した。2005年にマスターズと全英オープン,2006年に全英オープンと全米プロゴルフ選手権,2007年に全米プロゴルフ選手権を連覇して四大大会 13勝目を上げた。2008年に膝の手術を受けたが,ツアー復帰初戦の全米オープンで優勝し,ジャック・ニクラウスに次ぐトリプルグランドスラム(四大大会に各3回優勝)の快挙を成し遂げた。(→ゴルフ

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