翻訳|settlement
セツルメントとは,もともとは知識人がスラムに住み込むsettleという語意であり,日本では隣保事業という場合もある。ソーシャル・セツルメントの考え方を最初に明らかにしたのはE.デニソンといわれている。彼は19世紀後半の慈善・博愛事業が金品を供与して貧民救済をしていることの弊害を批判した。そして貧困を除去するために社会改良が重要であるとし,このために知識人がスラムに住み込んで貧困についての人々の認識を改めさせると同時に,スラムの人々との知的および人格的接触を通して,その自覚を促していく必要を主張している。この考え方は,1884年にS.バーネット夫妻を中心にして設けられたロンドンのトインビー・ホール(A.トインビーにちなみ命名)で具体化され,これが最初のセツルメントとされている。アメリカではJ.アダムズが89年にシカゴに建てたハル・ハウスがセツルメント運動をアメリカに広げる端緒を開いたといわれている。日本では,91年にキリスト教宣教師O.アダムズがつくった岡山博愛会,あるいは片山潜が97年に東京神田に設立したキングスレー館などが古い。
セツルメント活動にはいろいろの流れがあるが,その第1は大学セツルメント,あるいは学生セツルメントである。上記したトインビー・ホールがそうであるように,大学人(知識人)がセツラーとなって活動を行うというやり方は,大学植民事業とか大学拡張運動とかいわれている。日本でも1923年に学生による関東大震災の救援活動を契機に設立された東京市本所の東京帝国大学セツルメントは有名である。第2に宗教関係団体を背景にもつ多くのセツルメントがみられる。たとえばキリスト教を背景にした賀川豊彦の指導するセツルメントや仏教を背景とするマハヤナ学園などはとくに有名である。第3のタイプとして地方自治体や半官半民による〈公設〉のセツルメントがある。その代表的なものは米騒動の後に設立された大阪市立北市民館や,東京府社会事業協会の隣保館などがある。このほかに協調会の善隣館や愛国婦人会隣保館などがみられる。このように日本のセツルメント活動にはいろいろの系譜があり,その活動内容,方法は必ずしも一様ではないが,〈個人的接触を通じて労働者階級の物質的並に精神的要求を満たし,且つ彼等に教育の機会を与へて自発的に自己の文化を創造し自己開発をなす人格を作らしめる事である〉(大林宗嗣)とされている。しかし1930年代に入り,国家主義的傾向が全国的に強まるなかで,社会教化事業として社会事業の一環に組み入れられるようになったセツルメント活動に対して,セツルメントは社会改良的色彩を薄め,国家主義的市民教化事業に利用される懸念があるとして,セツルメントのあり方をめぐって激しい論争が行われた。いわゆるセツルメント論争とか隣保事業論争とかいわれるものである。この論争にみられた懸念は,日本が準戦時体制から戦時体制に移っていくなかで現実となり,国家主義的市民教化事業に抵抗してきた東京帝国大学セツルメントも,38年に当局の圧迫により閉鎖することになる。
第2次大戦後,国際的にもセツルメント活動はかつての隆盛を取り戻すことなく下降線をたどっていく。それは戦後,各国とも福祉国家の建設を志向し,社会保障,社会福祉の拡大と発展に努め,このためにかつてセツルメントが行ってきた事業の多くが,これらの社会保障,社会福祉に吸収されたことに加え,経済・社会の変動のなかでセツルメントをめぐる地域条件も大きく変化したためである。このために同和対策の一環としての隣保事業,一部の不安定就業者たちの密集している地域などにおける隣保事業,学生のサークル活動に結びつく学生セツルメントを除いて,セツルメント活動はその面目を大きく変えている。そしてセツルメント活動の伝統の一部は,社会教育活動や地域福祉(コミュニティ・ケア)活動に引き継がれ,隣保館の代りに,社会福祉会館,地域センター,公民館,その他各地に設けられた地域福祉関連施設で,かつてのセツルメント活動に類似した活動が行われている。
執筆者:三浦 文夫
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原義は住居を定めて身を落ち着けること、定住。転じて、インテリゲンチャや学生が労働者街、スラムに定住して、労働者、貧困者との人格的接触を通して援助を与え、自力による生活の向上、社会的活動への参加を行わせるための運動・活動、施設、団体のことをいう。隣保事業ともいう。
セツルメントは、イギリスのロンドンのスラム、イースト・エンドにオックスフォード大学教授A・トインビーを中心にオックスフォード、ケンブリッジ両大学の学生が住み着いたのが始まりで、1884年、セツルメント・ハウスであるトインビー・ホールToynbee Hallがつくられた。大学人の手によって始められたので大学拡張運動、大学植民事業ともよぶ。アメリカでは1886年、ニューヨークに最初のセツルメントがつくられ、1889年、J・アダムズによりシカゴのスラム、ホルステットにつくられたセツルメント・ハウス、ハル・ハウスHull Houseが有名である。アメリカでは人種問題、移民問題が活動の中心であった。
日本では、1891年(明治24)の宣教師アダムズAlice Pettee Adams(1866―1937)による岡山博愛会が最初ともいわれるが、セツルメント・ハウスとしては片山潜(せん)による1897年の東京市神田三崎町のキングスレー館Kingsley Hallが最初とされている。その後セツルメントは社会主義運動と結び付いて行われ、関東大震災後、急速な発展を遂げた。1925年(大正14)東京市本所に東京帝国大学の学生セツルメントが学生セツルメントの初めとして生まれ、弾圧にあいながらも本格的な活動を続けた。
1870年代から1920年代までの帝国主義段階におけるセツルメントは、時代の必要性に対応して重要な役割を果たしてきた。第一に、貧困は個人の性格や怠惰による問題ではなく、基本的には資本主義社会の構造に起因するものであることを実証したロウントリイ(ラウントリー)などによる科学的な貧困調査に先鞭(せんべん)をつけたこと、第二に、労働者の生活実態に触れて苦汗産業キャンペーンを展開して、イギリスで1909年に賃金規則の成立を導き、最低賃金制度の確立に寄与したこと、第三に、労働者教育活動やクラブ活動を通じて労働者教育活動を発展させたこと、第四に、地域社会を組織して地域社会福祉事業を前進させたことなどである。しかし、1930年代以降、とくに第二次世界大戦後になると、セツルメントは、労働運動、都市計画と住宅政策、学校教育や社会教育、社会保障などの社会諸サービスの前進・充実により、その活動領域は縮小し、活動量も減少している。
[横山和彦]
『音田正巳著『セツルメント』(大阪社会事業短期大学編『社会事業講座 第二巻』所収・1950・福祉春秋社)』▽『J・アダムズ著、柴田善守訳『ハル・ハウスの二十年』(1969・岩崎学術出版社)』
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…これが中国における最初の租界である。租界は土地取得のしかたによって,コンセッションconcessionとセツルメントsettlementに分類される。コンセッションは外国政府が中国政府から永久租借した土地を各国領事を通じて個人に払い下げるもの,セツルメントは外国人が中国人の地主から直接に租借するものである。…
…人間が集まり,居住している状態をさす。英語のsettlement,ドイツ語のSiedlung(Siedelung)は定住を意味している。フランス語のétablissement humaineは集落のほかに人類居住のために一時的または永久的に建設された建造物を含んで用いられた。…
…これが中国における最初の租界である。租界は土地取得のしかたによって,コンセッションconcessionとセツルメントsettlementに分類される。コンセッションは外国政府が中国政府から永久租借した土地を各国領事を通じて個人に払い下げるもの,セツルメントは外国人が中国人の地主から直接に租借するものである。…
…アメリカのセツルメント指導者,教育者。アマースト大学,アンドーバー神学校に学び,ロンドンのトインビー・ホールに6ヵ月滞在,セツルメント運動の開拓者サムエル・A.バーネット牧師の強い感化を受け,1891年ボストンで最初のセツルメント〈アンドーバー・ハウス〉(後にサウスエンド・ハウスと改称)を創設し,そこを拠点として,全国に広がるセツルメント運動に指導的活動を展開した。…
… 1800年代後半に入ると,イギリスは繁栄の絶頂に達した反面,しばしば経済恐慌に見舞われた。労働者の失業と窮乏化は促進され,他方労働者の政治的権力も拡大し,またCOS(シーオーエス)やセツルメントなど民間慈善運動の組織化も進められた。1905年から〈社会改革〉の一環として社会改良政策が展開され,08年無拠出老齢年金法,11年国民保険法(1部は健康,2部は失業)など救貧制度の枠を越えるものが実施された。…
…日本におけるセツルメント運動の端緒をなした施設。労働運動の組織化の初期において,労働者のための教育文化活動とキリスト教的社会主義の理念に立つ地域福祉事業の発展をめざす拠点として,1897年片山潜によって東京の神田三崎町につくられた。…
…施与のみでは貧困は解決しないとして,教育環境と教育の改善の必要を説き,その方法として教養人のスラム地区に移住することを提起した。その実践を含めセツルメントの先駆と評価される。COS(コス)(慈善組織協会)の創立にも参加。…
…とくに後者については,その主張はJ.H.クラッパムらの〈楽観説〉派から〈トインビー伝説〉と批判されたが,彼の立場への支持もいまだになくなってはいない。なお,イースト・エンドに現存する〈トインビー・ホールToynbee Hall〉は,その没後,1884年に彼を記念してS.A.バーネットが設立した世界最初のセツルメントである。【川北 稔】。…
…それぞれは発生する労働問題の性格や労働運動の発展状況とのかかわりで相互に影響を与え合いながら展開してきた。 (1)の形態は第2次大戦中までの日本にみられた細民対策としての思想善導のような例ばかりでなく,イギリスのセツルメント運動のように,労働運動の発展を反映して労働者に科学的な社会認識を与え,その自己教育運動の展開を支えてみずからの階級調和的な運動の性格を超えた例もある。(2)は労働者の権利意識の高まりの下では,利潤追求のための生産性向上も矛盾や摩擦の顕在化を回避しつつすすめられ,労働者の自己啓発や技術習得,経営参加の要求にこたえた学習活動がとり入れられてくる。…
※「セツルメント」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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