新撰 芸能人物事典 明治~平成 「エッケルトフランツ」の解説
エッケルト フランツ
Eckert Franz von
- 国籍
- ドイツ
- 職業
- 海軍軍楽隊教師
- 生年月日
- 1852年 4月5日
- 出生地
- シレジア地方ノイロード(ポーランド・低シロンスク県ノバルーダ)
- 学歴
- ブレスラウ音楽学校卒,ドレスデン音楽学校卒
- 経歴
- プロイセンのシレジア地方ノイロード(ポーランドの低シロンスク県ノバルーダ)で裁判所職員の息子として生を受ける。ブレスラウ(ヴロツワフ)とドレスデンの音楽学校で学び、ナイセで軍楽隊員として勤務した後、ヴィルヘルムスハーフェンの海軍軍楽隊長に就任。明治12年日本海軍の軍楽隊教師として招聘され単身来日。以後、主にワーグナー、ハイドン、ベートーヴェンなどのドイツ音楽を、楽器も実力も不足していた当時の状況に合わせて大胆なアレンジで教える。13年奥好義作曲、林広守撰国歌「君が代」を編曲し、現在の形にした。16年から19年まで音楽取調掛教師、20年からは宮内省式部職音楽教師を兼務。22年海軍軍楽隊を契約満了のため退職したが、宮内省では続けて教鞭を執った。23年から27年まで陸軍戸山学校、24年から25年まで近衛軍楽隊で嘱託教師も務めた。28年、再び海軍に請われて嘱託教師になった他、「旅順陥落記念行進曲」を作曲。30年英照皇太后の崩御に際し、大喪史の命により「葬送行進曲〈哀の極〉」を制作。同年海軍軍楽隊で正規雇用され、「海軍軍楽学理的教科書」編纂に関わった。32年海軍と宮内省を任期満了で退任、帰国。以後、しばらくベルリンで陸軍軍楽隊長の地位にあったが、34年大韓帝国に渡って李王朝軍楽隊教師となり、閔泳煥の詞による「大韓帝国愛国歌」を作曲した。教育と朝鮮音楽研究に取り組む日々を送っていたが、40年日韓第三次協約で軍隊が解散、同時に軍楽隊も王職音楽隊と改められた。大正3年第一次大戦では敵性外国人に認定され、失意のうちに病を得て亡くなった。他の作品に「東京記念行進曲」「奉祝徐行進曲」「膠州湾行進曲」、編曲に「日本民謡」「独逸愛国歌集」「朝鮮語讃美歌」などがある。
- 受賞
- 勲六等単光旭日章(日本)〔明治16年〕,勲五等双光旭日章(日本)〔明治32年〕,第三等太極勲章(大韓帝国)〔明治35年〕
- 没年月日
- 1916年 8月6日
- 親族
- 女婿=アドマール ピエール・フランソワ(外交官)
- 伝記
- 三つの君が代―日本人の音と心の深層洋楽導入者の軌跡―日本近代洋楽史序説開化異国(おつくに)助っ人奮戦記 内藤 孝敏 著中村 理平 著荒俣 宏 著,安井 仁 撮影(発行元 中央公論新社刀水書房小学館 ’99’93’91発行)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報