改訂新版 世界大百科事典 「カティン事件」の意味・わかりやすい解説
カティン事件 (カティンじけん)
第2次大戦初期にソ連軍の捕虜となったポーランド人将校が大量に虐殺された事件。カティンKatynはロシア西部の,スモレンスク近郊のドニエプル河畔にある森。ソ連に侵入したドイツ軍は1943年4月カティンの森で4321名のポーランド人将校の虐殺死体を発見と発表,領土問題をめぐって緊張の度を高めていたソ連とポーランド亡命政府の関係を決裂に導いた。ソ連軍が1939年9月にポーランドに侵入したとき捕虜にしたポーランド人将校は約1万5000名,その大部分が40年5月以降行方不明となっていた。カティンの虐殺死体はその一部と見られた。犠牲者は45%が職業軍人,他の多くは予備役で召集された弁護士,裁判官,医師,大学教授など当時のポーランド社会の中心的な人びとであったため,ポーランド人の対ソ感情を著しく悪化させることになった。ソ連側はナチスのしわざと主張してきたが,ペレストロイカの進展に伴う〈歴史の見直し〉のなかで,ゴルバチョフ大統領は90年4月,事件にソ連内務人民委員部(秘密警察)が関わっていたことを認め,ポーランド側に謝罪した。さらに92年10月,ロシアのエリツィン大統領は,ポーランド人将校の虐殺を指令した1940年5月の共産党政治局の決定とスターリンの署名を公表した。
執筆者:伊東 孝之
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報