キレエフスキー兄弟(読み)キレエフスキーきょうだい

改訂新版 世界大百科事典 「キレエフスキー兄弟」の意味・わかりやすい解説

キレエフスキー兄弟 (キレエフスキーきょうだい)

ロシアの貴族の出身。兄イワンIvan Vasil'evich Kireevskii(1806-56)はスラブ派の代表的な哲学者。1820年代半ばV.F.オドーエフスキー公爵の〈愛智会〉でシェリング哲学を学び,ドイツ・ロマン主義の影響を受ける。30年にドイツ遊学,シェリング,ヘーゲルらと交遊。32年に雑誌《ヨーロッパ人》を主宰して巻頭論文《19世紀》を書き,キリスト教世界としての西欧とロシアとの一体化を説いたが,この欧化主義を立憲主義と解釈した当局により,雑誌は2号をもって停刊,本人も蟄居(ちつきよ)を命ぜられた。しかし,その後思索を深め,《ホミャコーフに答えて》(1838)によりスラブ派の思想家として再登場,45年《モスクワ人》誌の編集に従事(1~3号)したが,再度政府の忌諱(きい)に触れ,引退した。彼の数少ない論文のうち,《哲学にとっての新しい原理の必然性と可能性について》(1856)は,スラブ派哲学の精髄を示す。この中で彼は西欧の社会対立と諸個人の内面的分裂との原因を合理主義の精神に求め,理性信仰との真の結合による社会的・人格的調和(〈全一性〉)の回復を模索正教基盤としたロシア思想の世界史的意義を説き,ドストエフスキーやソロビヨフら後世の思想家に影響を与えた。弟のピョートルPyotr Vasil'evich K.(1808-56)は30年代初頭からフォークロアの収集を始め,ロシアの民衆文化の独自な価値に開眼,兄のスラブ主義思想の深化を助けた。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のキレエフスキー兄弟の言及

【スラブ派】より

…ナポレオン戦争後の民族主義とドイツ・ロマン主義の影響のもとにはぐくまれ,直接的にはチャアダーエフの《哲学書簡》(1836)をめぐる論争の過程で形成された。この派のおもな思想家はキレエフスキー兄弟,A.S.ホミャコーフ,アクサーコフ兄弟,サマーリンYurii Fyodorovich Samarin等で,彼らの論敵は西欧派と呼ばれた。1840年代の初頭から50年代にかけて,二つの陣営は西欧とロシアの文化的特質,ロシア文化の自立性,世界史の中でのロシアの役割等の問題に関して,各種のサロンを中心に議論をたたかわせた。…

※「キレエフスキー兄弟」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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