翻訳|Corsica
地中海にあるフランス領の島。フランス名コルスCorse。面積8722km2,人口29万(2006)。オート・コルス県(県都バスティアBastia)とコルス・デュ・シュド県(県都アジャクシオ)の2県からなる。コルシカはフランスのいくつかの地域のなかで非常に強い個性を持った地域の一つである。地中海の北部サルデーニャ島の北に,ボニファチオ海峡を隔てて位置する島からなるというその島嶼(とうしよ)性だけによるのではない。その地理的位置に由来する半乾燥的な地中海的風土,さらにはイスラム教徒の占領とピサやジェノバの支配を経験したというその特異な歴史が,フランスの他の地域とは異なるコルシカの個性を形づくっている。
平均高度568mのコルシカはしばしば〈海にそびえる山〉と呼ばれるように,全島が山がちの地形であり,チント山(2716m)をはじめ中央山脈には2000mをこえる山地が連なり,高地部は一年の大半が雪におおわれている。分水界はいくらか西に寄っているが,これにより島は西側の外帯Banda di Fuoriと東側の内帯Banda di Dentroとに分けられている。東側の海岸には小規模ではあるが,アレリア平野をはじめ,いくつかのゆるやかな丘陵や平野が見られる。山地の大部分はザクロ石花コウ岩などの古い地層の硬い岩石からなり,プリュネリ,リアモーヌ,スペルンカなどにおいて見られるように,深い峡谷がそこに刻まれている。薄い片岩や石英質の岩石の地帯は浸食を受けて段丘状の地形を形づくり,農村集落の多くはそこに立地している。西海岸は屈曲に富んだ海岸線を示しているが,険しい山地が海に迫り,内陸部との交通が困難であること,また帆船交通に適した風がないことなどのために港湾はあまり見られない。これに対して東海岸には小港が多くあり,古来,海上交通がさかんであった。現在,臨海観光業が発達しているのもこの地帯である。
コルシカの気候はイタリアのトスカナ西部やリグリアのそれに類似しているが,大きく分けると海岸部,内陸部および山地の三つの気候帯に分けることができる。高度600mぐらいまでの地帯は温暖な沿岸性の気候で,オークやコルクガシなどの植生が見られる。高度1600mぐらいまでの内陸部は,夏冬の気温の変化が大きく,シロッコ(高温の南風)の影響下にあるときなどは非常な高温に達する。内陸では高度がふえるにつれて雨量も多くなり,高度900mから1200mの間ではマツなどの針葉樹が,1200mをこえるとモミなどの植生が見られるようになる。山地気候の地帯の大部分がアルプス型の植生を示している。南部にはマキと呼ばれる硬葉樹林群落が発達している。
新石器時代の住民はサルデーニャと共通した文化を持っていたと考えられているが,のちに巨石文化がスペインからもたらされた。青銅器および鉄器文化は中部イタリアから伝来したと考えられているが,アレリア,ニセアではフェニキア人の遺跡が発見されている。前6世紀中葉にフェニキア人はエトルリア人とカルタゴ人によって追い払われ,前4世紀中葉,ローマ人がやってくるまでは,エトルリア人の影響力が強かった。ポエニ戦争に際しては,アレリアはローマ軍の基地になった。ローマ人治下のコルシカ島は木材の産地として以外には,あまり大きな経済的価値を持たず,人口も希薄であったと考えられている。キリスト教伝来の正確な時期はわかっていない。5世紀以降は,バンダル,ビザンティン,ランゴバルドなどの支配が交代し,9世紀にはイスラム教徒が島を占領した。11世紀中葉,ピサが占領してコルシカは再びキリスト教徒の島になった。
その後もピサとジェノバとの間でコルシカの領有をめぐって争いが続き,ジェノバは1195年ボニファチオを占領,1284年には全島を支配するにいたった。その後もアラゴン王国の介入,島内の領主間の争いが絶えず,16世紀になると,フランスも介入してきてコルシカ人のジェノバ人に対する反乱を援助した。1729年,過酷な徴税に反対するコルシカ人の全面的蜂起がおこり,68年にはジェノバはコルシカに関するあらゆる権利をフランスに譲渡した。93年から96年の間,島の一部はイギリス人によって占領され,さらに1942年11月から約1年間はドイツ・イタリア軍に占領された。このようにして方言や風俗にはイタリア的要素を多く残しながらも,18世紀後半以降コルシカはフランスの一部をなしてきたのである。
経済的に見ればコルシカはフランスで最も後進的な地域である。生産性の低い小麦,ブドウ,オリーブの栽培,羊,ヤギを主体とする移牧を伴う牧畜という何百年と続いている伝統的経済生活が今なお島の大部分で支配的であり,1960年代になって限られた地帯においてではあるが,観光関連産業が発達してきている。農村集落は集村の形をとり,広大な村有地がいわゆる入会地として残っている。革命後,農民は土地台帳のうえでは小土地所有者になっているが,農地は分割されないまま残っている場合が多い。大陸部との経済的格差は大きく,大陸への交通が容易になるにつれて,人口の流出が急増した。1930年,2万9000あった農業経営体が,54年には1万1450,70年には8883に減少した。さらにそのうち4221は5haに満たない規模の経営である。現在,農業経営として成り立っているのはブドウ酒とヤギのチーズの生産ぐらいである。
地域開発のために莫大な公共投資がなされているが,見るべき成果をあげているのは観光関連産業のみである。この部門の発展は著しく,1970年,年間50万であった観光客数が,75年には100万,80年には200万をこえるにいたった。観光関連産業の発達とともに,自然景観の保護が大きな問題になり,中央山地から西海岸にかけての地帯が公園地区としての指定を受けている。観光業発達のための道路網の整備,水力発電および水道用水確保のためのダムの建設がなされ,東部沿岸部では,観光業発達の影響を受けて農業もかなり集約化してきている。また小規模なものであるが,アジャクシオ,バスティア,ポルト・ベッキョでは工業団地も建設されている。
コルシカの言語は,脊梁山脈によって二つの部分に分けられ,東の部分はトスカナ語の影響が強く,西部はサルデーニャ北部の方言との共通点が強い。このようにして,言語的にも,コルシカは,フランスの他の地域とかなり異質であり,社会組織にも,血縁関係を重んじ,中央権力とは別の秘密結社の力による自治を指向するなど,地中海世界に共通する特色が多く見いだされる。このような独自な文化ということを根拠に,両大戦間の時期には,コルシカのナショナリズム,分離主義がかなり高揚した。しかし,この運動の指導者の大部分は人民戦線に反対し,やがてドイツ・イタリア軍の占領体制の下で協力者になることによって,その運動が根本的に持っていた弱点を露呈した。
現在のコルシカの地域主義は,フランス国家の分権化を求めるなかで,後進性克服のための富の再配分,地域固有の文化の振興を求める方向を主張している。現実的に見ても,コルシカの経済は,中央政府からのさまざまな形での所得移転,移民の送金,大陸部からの観光客に大きく依存しているのである。しかし,観光関連産業の振興,工業化などが,土着文化の振興とどこまで両立するか,また,そのような開発政策の恩恵が,島民全体に平等にゆきわたっているかという点になると,大きな問題がある。
執筆者:竹内 啓一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
地中海西部にあるフランス領の島。フランス名コルスCorse。コルシカはイタリア名および英名。面積8680平方キロメートル、人口26万0196(1999)。シチリア、サルデーニャ、キプロスに次ぐ地中海第四の大島で、東はティレニア海、西はリグリア海に囲まれ、北はコート・ダジュールまで175キロメートルあり、南はボニファシオ(ボニファチョ)海峡を挟んでサルデーニャ島に対している。1975年までは全島で一つの県を構成してきたが、現在は南西部のコルス・デュ・シュド(面積4014平方キロメートル、人口11万8593、県都アジャクシオ)と北東部のオート・コルス(面積4666平方キロメートル、人口14万1603、県都バスティア)の2県よりなる。両県で一つの裁判区、アカデミー(大学区)を構成し、リヨンの軍管区、エクサン・プロバンスの大司教区に属している。
古生代ヒルカニア期の山地が第三紀アルプス造山運動の影響を受けて取り残され、「海中の山」とよばれる山がちの島となった。標高200メートル以下の平野は少なく、東海岸中部のアレリア平野がやや広いだけで、1000メートル以上の土地が全島の4分の1を占め、所により2000メートル以上に達し、最高峰は北部のチントCinto山(2710メートル)。西海岸は屈曲に富み、良港も多いが、東海岸は変化に乏しい。沿岸部は典型的な地中海気候を示し、ヒツジの過放牧や火入れのためマキとよばれる二次林が多いが、高度が高くなるにつれて年降水量も多くなり、1100~1500メートルでは1000ミリメートルを超え、マツやブナの森林がみられる。オリーブの栽培限界は700メートルである。1880年ごろには人口約27万であったが、ほぼ1世紀間に多くの移民を出し、1960年には人口が最低の17万5000人になった。農業は長らくヒツジの放牧とチーズ生産を主としていたが、1957年にコルシカ農業開発公社SOMIVACが設立され、東部平野の水利条件の改良などにより生産性が向上し、とくにブドウ、モモ、柑橘(かんきつ)類の栽培面積が増大した。第二次産業は農業を基礎とした食料品工業が主で、第三次産業は夏季の観光事業が中心である。
[高橋 正]
紀元前6世紀以来、ギリシア人、エトルリア人、カルタゴ人が相次いで植民を行い、前260年から1世紀を要してローマ人が支配を打ち立てた。西ローマ帝国の解体時にバンダル人、ゴート人が侵入し、6世紀にビザンティン(東ローマ)帝国によって再征服されたが、その後ランゴバルド人が侵入した。ランゴバルド王国を滅ぼしたカール大帝はコルシカを教皇に寄進したが、7世紀から10世紀にかけてはイスラム教徒が島の南部を占拠し、海岸部を侵略した。1077年にコルシカは教皇からピサ司教に委託されて同市の支配に服し、さらに14世紀からはジェノバの手に渡った。島民はジェノバの支配に対してしばしば反乱を起こしたが、16世紀以降フランスがこれに介入するようになった。18世紀のパオリ父子を中心とする独立運動は、ジェノバ、フランスの連携の下に抑圧され、1768年に同島はフランスに売却された。翌年ナポレオン・ボナパルトがアジャクシオに誕生している。フランス革命勃発(ぼっぱつ)(1789)後、パスカル・パオリは独立運動を再開し、イギリスもこれを支援したが、1796年にはフランスの支配が確立した。ナポレオン1世の没落に伴い1814年にはイギリスの統治を受けたが、翌年フランスに返還された。19世紀の過程を通じてフランス化が進行したが、固有の文化を保持しようとする動きも継続する。第二次世界大戦中の1942年にはイタリアの支配下に入ったが、翌年9、10月にはフランス軍によって解放された。
[江川 温]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
地中海上のフランス領の島。古代にはローマに服属し,中世にはジェノヴァが領有したが,1768年にフランスに売却され,その間しばしば独立運動があった。ナポレオンの生地として有名であり,現在はフランスの一県をなす。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…10世紀には市壁が築造され,周辺農村からこれらの貴族層が都市へ移住した。彼らは船団を仕立ててイスラム海軍と戦いつつ,コルシカ,サルデーニャなどへ勢力を拡大した。1100年,十字軍救援のための船団が出港する際に,都市内の平和を維持するための誓約団体compagna communisが結成されたが,これが後に都市の自治組織に発展した(コムーネ)。…
…コルシカの愛国者,政治家。ジェノバのコルシカ支配に抵抗して独立運動を進めた父ジャチントとともに1739年ナポリに亡命。…
…〈しみ〉〈斑点〉を意味するラテン語に由来し,フランスでは地中海沿岸,とくにコルシカ島の密な低木林を指す。イタリアでもやぶや灌木の密生地をマッキアmacchiaと呼ぶ。…
※「コルシカ島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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