日本大百科全書(ニッポニカ) 「コルシカ島」の意味・わかりやすい解説
コルシカ島
こるしかとう
Corsica
地中海西部にあるフランス領の島。フランス名コルスCorse。コルシカはイタリア名および英名。面積8680平方キロメートル、人口26万0196(1999)。シチリア、サルデーニャ、キプロスに次ぐ地中海第四の大島で、東はティレニア海、西はリグリア海に囲まれ、北はコート・ダジュールまで175キロメートルあり、南はボニファシオ(ボニファチョ)海峡を挟んでサルデーニャ島に対している。1975年までは全島で一つの県を構成してきたが、現在は南西部のコルス・デュ・シュド(面積4014平方キロメートル、人口11万8593、県都アジャクシオ)と北東部のオート・コルス(面積4666平方キロメートル、人口14万1603、県都バスティア)の2県よりなる。両県で一つの裁判区、アカデミー(大学区)を構成し、リヨンの軍管区、エクサン・プロバンスの大司教区に属している。
古生代ヒルカニア期の山地が第三紀アルプス造山運動の影響を受けて取り残され、「海中の山」とよばれる山がちの島となった。標高200メートル以下の平野は少なく、東海岸中部のアレリア平野がやや広いだけで、1000メートル以上の土地が全島の4分の1を占め、所により2000メートル以上に達し、最高峰は北部のチントCinto山(2710メートル)。西海岸は屈曲に富み、良港も多いが、東海岸は変化に乏しい。沿岸部は典型的な地中海気候を示し、ヒツジの過放牧や火入れのためマキとよばれる二次林が多いが、高度が高くなるにつれて年降水量も多くなり、1100~1500メートルでは1000ミリメートルを超え、マツやブナの森林がみられる。オリーブの栽培限界は700メートルである。1880年ごろには人口約27万であったが、ほぼ1世紀間に多くの移民を出し、1960年には人口が最低の17万5000人になった。農業は長らくヒツジの放牧とチーズ生産を主としていたが、1957年にコルシカ農業開発公社SOMIVACが設立され、東部平野の水利条件の改良などにより生産性が向上し、とくにブドウ、モモ、柑橘(かんきつ)類の栽培面積が増大した。第二次産業は農業を基礎とした食料品工業が主で、第三次産業は夏季の観光事業が中心である。
[高橋 正]
歴史
紀元前6世紀以来、ギリシア人、エトルリア人、カルタゴ人が相次いで植民を行い、前260年から1世紀を要してローマ人が支配を打ち立てた。西ローマ帝国の解体時にバンダル人、ゴート人が侵入し、6世紀にビザンティン(東ローマ)帝国によって再征服されたが、その後ランゴバルド人が侵入した。ランゴバルド王国を滅ぼしたカール大帝はコルシカを教皇に寄進したが、7世紀から10世紀にかけてはイスラム教徒が島の南部を占拠し、海岸部を侵略した。1077年にコルシカは教皇からピサ司教に委託されて同市の支配に服し、さらに14世紀からはジェノバの手に渡った。島民はジェノバの支配に対してしばしば反乱を起こしたが、16世紀以降フランスがこれに介入するようになった。18世紀のパオリ父子を中心とする独立運動は、ジェノバ、フランスの連携の下に抑圧され、1768年に同島はフランスに売却された。翌年ナポレオン・ボナパルトがアジャクシオに誕生している。フランス革命勃発(ぼっぱつ)(1789)後、パスカル・パオリは独立運動を再開し、イギリスもこれを支援したが、1796年にはフランスの支配が確立した。ナポレオン1世の没落に伴い1814年にはイギリスの統治を受けたが、翌年フランスに返還された。19世紀の過程を通じてフランス化が進行したが、固有の文化を保持しようとする動きも継続する。第二次世界大戦中の1942年にはイタリアの支配下に入ったが、翌年9、10月にはフランス軍によって解放された。
[江川 温]