フランス南東部,ブーシュ・デュ・ローヌ県の古都。人口13万4280(1999)。地中海岸マルセイユの北方約30km,アルク川南方の平原上に位置する。長らくプロバンス地方の中心地であり,また薬用の温泉を湧出し,医療保養地でもある。北方に石灰質の岩山サント・ビクトアール山が印象的にそびえているが,この風景は,エクス出身でこの町で死んだ画家セザンヌの絵画によってよく知られている。旧城壁跡の一部であるミラボー通りは,エクスのシンボルであるが,東西500mにおよぶ広い遊歩道であり,マロニエの喬木が樹陰をつくる美しい並木道として知られている。大学,大司教座,控訴院の所在地で,夏には国際音楽祭が開かれる。
エクスの起源は,前4世紀,ケルト人とリグリア人とが協同して城砦を築いたところに求められる。その地はエクスの北郊2.5kmの丘陵上であり,アントルモンの砦とよばれるが,すでに都市的生活が営まれていた。前123年,マルセイユへ来援したローマ軍が,コンスルのセクスティウスのもとに,アントルモンを襲撃して破壊し,次いで現在のエクスの土地に軍駐屯地をもうけた。湧泉にも由来して,この土地は〈セクスティウスの水Aquae Sextiae〉と称され,現名の語源となった。前2世紀末,北方のゲルマンの一部族テウトニ(チュートン)人が南下してローマの支配を脅かし,ローマの統領マリウスは軍勢を率いて迎えうった。ローマ人とゲルマン人の衝突のうち,もっとも初期のものである。現在のサント・ビクトアール近辺での戦闘は,前102年マリウスの勝利に帰し,テウトニ人10万人が犠牲になったと伝える。ローマ支配下で要衝を占めたが,帝政末期以後,ゲルマン諸族の侵入にさらされ,次いではアラブの襲撃などによって,エクスは荒廃した。しかし11世紀になると,南フランスに勢力を固めたプロバンス伯が,エクスを居城とさだめ,急速にエクスは中心的地位を占めるようになる。成熟した南フランス文化が開花し,トルバドゥールや伝説上の恋愛法廷がプロバンス文化をになった。政治的にも文化的にも,北フランスの圧迫が強まるなか,エクスのプロバンス文化は15世紀の伯,アンジュー家のルネの時代に最後の輝きをみせ,ルネサンス・イタリアから画家たちが訪れた。ルネの死後1487年,プロバンス地方とともにエクスはフランス王領に併合されて,独立した地位を失った。しかし,地方的慣習・権利を剝奪し,中央集権をすすめるルイ王朝にたいして,プロバンスの各都市の反抗がおこった。1630年,プロバンス伯領の主都を移そうとした宰相リシュリューの政治にたいして,エクス市民も反乱をおこした。反乱は鎮圧されたが,各地でひきつづいた反抗は,フロンドの乱の混乱に流入する。18,19世紀に,マルセイユが港湾としての地位を高めると,エクスとのあいだの相克が強まり,マルセイユの繁栄とともにエクスは地方的中都市にとどまることになった。
→プロバンス →プロバンス文学
執筆者:樺山 紘一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
南フランス、プロバンス地方、ブーシュ・デュ・ローヌ県の都市。人口13万4222(1999)、14万2668(2015センサス)。商工業の中心地で、オリーブ、アーモンド、果実の取引が行われる。また文化の中心地でもあり、芸術の都として知られる。毎年夏には音楽祭が行われ、観光客でにぎわう。13~14世紀に再建された大聖堂、13世紀創建の教会、グラネ博物館などみるべきものが多い。画家セザンヌの生地としても知られている。歴史は古く、鉱泉があることにより、ローマ人によって紀元前123年に築かれ、中世にはプロバンス地方の首都となって発展するようになった。
[青木伸好]
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新