カルタゴ(読み)かるたご(英語表記)Cartago

日本大百科全書(ニッポニカ) 「カルタゴ」の意味・わかりやすい解説

カルタゴ(古代都市)
かるたご
Carthago ラテン語
Karthago ラテン語

北アフリカのチュニス郊外にあった古代都市。西地中海に散在するフェニキア系植民市の一つで、紀元前814年ティルスTyrusを母市として建設されたという。名称は、フェニキア語で「新しい都市」を意味するKart-Hadashtに由来する。この都市の遺跡は1979年に世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。「カルタゴ人」はラテン語では「ポエニPoeniとよばれる。

 当時、フェニキア系都市の間では、東地中海世界での金属器使用の増加に伴って、原住民との物々交換イベリア半島などの西地中海産鉱石を入手し、東方に売る鉱石取引が盛んとなりつつあったが、良港と肥沃(ひよく)な後背地に恵まれたカルタゴは、この取引の主導権を握り、貿易統制、同盟、植民などの手段によってシドラSidra湾以西のフェニキア系都市の大部分を自己の交易網に組み込むことに成功した。したがって、イベリア半島、北アフリカ、シチリアサルデーニャバレアレスなどの住民にとっては、ポエニ文化こそが最初に接触した本格的オリエント文明であった。このカルタゴの貿易独占は、前6世紀以降、フォカイアPhocaeaなどギリシア系ポリスの西方植民によって動揺した。守勢となったカルタゴは、エトルリア人ローマとの同盟(前509年、前348年の2回。カルタゴの貿易独占と、イタリア内部不干渉を規定)をもってこれに対抗したが、前480年ヒメラHimeraでの敗戦を境として、とくにシチリア島では勢力後退を余儀なくされた。前4世紀にはシラクサを中心とするギリシア勢の攻勢の前にカルタゴの貿易は行き詰まりをみせ、前3世紀には従来の支配層である大商人門閥に混じって、奴隷制農場経営に経済的基盤をもつ新たな階層が登場し、同時に、これまでカルタゴ国政においてほとんど発言権をもたなかった下層市民が独自の動きをみせ始めた。こうしてカルタゴ社会全体の変質が進むなかで勃発(ぼっぱつ)したローマとの戦争(ポエニ戦争)は、結局カルタゴの完敗に終わり、前146年、ローマ軍の破壊によってカルタゴはその国家としての歴史を閉じた。

 カルタゴ市にはポエニ語の記録、裁判文書、歴史書が豊富に存在したと伝えられるが、宗教関係の碑文類を除いては現存せず、カルタゴについての史料の大部分は、敵であるギリシア人、ローマ人著作家の叙述である。したがってこれによって構築されたカルタゴ像には不明の点が多いばかりか、ある種のゆがみが加わっている可能性が強い。

[栗田伸子]

国制および軍制

最高政務官である2名のスフェテスSuffetesが数百名の元老院とともに軍事、外交、行政の大権を握っていたとされる。ほかに104名からなる裁判委員会もあった。成年男子市民のほぼ全員からなる民会には、スフェテスと元老院が提出に同意した案件の採決権があり、民会参加者全員に代案提出権があった。アリストテレスはこの政体を王政、貴族政、民主政の混合政体として高く評価するが、現実には民会の発言権は限られたものであり、また政務官に対しては元老院の厳しいチェックが働き、結局カルタゴ国政の主体は、閉鎖的な大商人門閥の牙城(がじょう)たる元老院にほかならなかったと考えられている。

 また、軍の指揮権は当初スフェテスに属したが、しだいにこれとは別の「将軍」職が生まれ、バルカ一族のような軍事専門家的門閥が形成された。カルタゴ市民はほとんど従軍せず、軍の中核はイベリア人、バレアレス人、ギリシア人、ベルベル人などの傭兵(ようへい)が占めていた。ポエニ戦争中の前3世紀には傭兵の大反乱が起き、カルタゴを内側から揺さぶった。

[栗田伸子]

社会階層

マゴ家、ハンノ家などの大商人門閥=支配層のほかに、カルタゴ市には多数の下層市民が存在した(前3世紀のカルタゴの人口は推定10万人)が、彼らの生活形態は、零細な商人、手工業者と推定されるのみで、不明の点が多い。奴隷は手工業や市近郊大農場の労働力として相当使用されていたと思われるが、地位、待遇についてはわかっていない。カルタゴは現在のチュニジア北部のかなりの面積を領土としていたが、この領域内の原住民(いわゆるベルベル系の住民)はそれぞれの共同体を保持したまま収穫の4分の1(戦時には2分の1)を貢納する隷属民となっていた。

[栗田伸子]

宗教および文化

フェニキア文化、シリア地方のセム系諸文化と共通する部分が多い。フェニキアの神々のなかでもバアル・ハモン神、タニト女神両神が市の守護神としてとくに信仰された。反カルタゴ的なギリシア、ローマ著作家が強調する人身御供(ごくう)の習慣もこのようなフェニキア文化一般の一要素であって、カルタゴ特有のものではない。

[栗田伸子]

『長谷川博隆著『ハンニバル――地中海世界の覇権をかけて』(『人と歴史シリーズ 西洋3』1973・清水書院)』


カルタゴ(コスタリカ)
かるたご
Cartago

中央アメリカ、コスタリカ中部の都市。カルタゴ県(人口43万2395。2000)の県都。中央高原東部、イラス火山山麓(さんろく)のカルタゴ盆地にある。標高1500メートル。人口13万2057(2000)。1563年に建設され、1823年までコスタリカの首都であった。中心部にある大教会および教区府の跡が建設当時をしのばせる。1841年と1910年の2回、地震により大被害を受けた。周辺地域はコーヒー、野菜、酪農など農業が盛んである。パン・アメリカン・ハイウェーと鉄道で主要都市と結ばれる。

[今野修平]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カルタゴ」の意味・わかりやすい解説

カルタゴ
Carthago

北アフリカで最も栄えた古代都市。現チュニジアの首都チュニスの北東約 16km,地中海に突き出した三角形の半島に位置し,投錨に適した魚類豊富なチュニス湖を背に,防衛上きわめて有利な地形に恵まれていた。おそらく前 720年頃地中海に進出したフェニキア人がここに貿易都市を創設した。地名は「新しい都市」を意味する Qarthadashtに由来する。ギリシア人はカルケドン,ローマ人はフェニキア人をなまってポエニ人の町と呼んだ。フェニキア人はここを基地に大西洋沿岸地方まで船隊を派遣し,北アフリカや南部スペインでの銀の産出のほか,果実,家具,象牙を含む各種物資の貿易を 500年にわたって続け,しだいにカルタゴは勢力を蓄え,周辺の都市を支配するに及んだ。前6世紀頃からシチリア領有をめぐってギリシア諸都市と争いが生じ,前4世紀頃までシチリア戦争は続いた。さらに前3世紀頃よりシチリアにおける領土とチレニア海の制海権をめぐって3回にわたるポエニ戦争をローマと戦った。ハミルカル・バルカス,天才的な軍略を縦横に駆使したハンニバルらの将軍はローマと果敢に戦ったが,ローマの名将スキピオ・アフリカヌスに敗れ (第2次ポエニ戦争) ,カルタゴは凋落した。さらにカルタゴの復興を恐れたローマは,ついに前 146年カルタゴを全滅させ,略奪,放火によって,町は廃墟と化した (第3次ポエニ戦争) 。前 29年ローマの属州アフリカの行政中心地として再建され,かつての繁栄を取り戻し,都市および大農園には多くの公共建築物が建造され,先住民のローマ市民化も進み,皇帝を輩出するまでになった。 200年以後キリスト教が急速に広がり,アウグスチヌスら多数の神学者が活躍した。しかし4世紀末頃より衰退しはじめ,439年にはバンダル族に,553年にはビザンチン帝国に占領され,697年アラブ人によって完全に破壊された。ローマ期のものを中心とした遺構,遺跡は,1979年世界遺産の文化遺産に登録。

カルタゴ
Cartago

コスタリカ中部の都市。同名州の州都。首都サンホセの南東約 20km,イラス火山南麓の標高約 1500mの地に位置する。 1563年スペイン人によって建設され,1823年までスペイン植民地コスタリカ地方の首都とされた。 17世紀にはたびたび市の富をねらった海賊に襲撃された。地震が多く,しばしば大きな被害を受け,1910年にはほとんど全市が倒壊。現在は周辺の人口稠密な農業地帯に産するコーヒーの集散地。市内にはコスタリカの守護神ロスアンヘレスの聖母をまつる聖堂があり,国内各地から多くの巡礼が訪れる。首都と鉄道,パンアメリカン・ハイウェーで連絡。人口2万 9771 (1991推計) 。

カルタゴ
Cartago

コロンビア西部,バイェデルカウカ州北東部の都市。首都ボゴタの西約 200km,アンデス山中の肥沃なカウカ谷にある。農業地帯の商業中心地で,タバコ,サトウキビ,コーヒー,肉牛などを集散する。 1540年に建設された古い町で,市内には副王邸などスペイン植民地時代の優れた建築物も残っている。州都カリとメデリンを結ぶ幹線道路,鉄道が通る。人口9万 2524 (1985) 。

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