改訂新版 世界大百科事典 「ジョン欠地王」の意味・わかりやすい解説
ジョン[欠地王]
John the Lackland
生没年:1167-1216
イングランドのプランタジネット朝第3代の国王。在位1199-1216年。ヘンリー2世の末息子で寵愛を受け,父のアイルランド遠征はジョンへの遺領のためであった。しかし,大陸には所領を与えられなかったので〈欠地王〉または〈失地王〉の異名があった。兄リチャード獅子心王の十字軍遠征で不在のとき,王の腹心でノルマンディー生れの行政長官ロンシャンの独断専横に対して,ジョンは諸侯とともに彼の罷免を要求し成功した(1191)。兄王の死後,次兄ジョフロアの子アルチュールとジョンとの間に王位継承の問題があったが,ジョンは教会と諸侯の支持で即位した。同時に大陸のアンジュー家の所領をも継承したが,家臣との対立で常にフランス王の介入を受け,1202年にはパリの宮廷裁判所に召喚された。ジョンはこれを拒否したため,封建法に基づき,アキテーヌを除く大陸の全所領を没収された。〈アンジュー帝国〉解体の始まりである。その後ジョンは所領の回復を求めて大陸に侵攻したが,フランス軍のためにブービーヌの戦で敗北した(1214)。ジョンは王国にあって司法・行政の組織化に顕著な貢献をなしたが,反面大陸遠征費の調達に苛斂誅求をきわめ,そのためかねてその圧政に不満をもった諸侯はジョンの敗北を機に結束し,翌年ラニミードで大憲章(マグナ・カルタ)を承認させた。他方カンタベリー大司教が空位となって(1205),教皇インノケンティウス3世がラングトンを後継者に決定したさい,ジョンはこれを拒否したため教皇と対立し,王は破門され王国は聖務停止のもとに置かれた。しかし教皇の要請によるフランス軍のイングランド侵攻が伝えられると,ジョンは王国を教皇に献上し,主従関係のもとに入ることで和睦した(1213)。教皇は破門と聖務停止を解除し,さらにその後ジョンの懇請をいれて,大憲章の無効を宣言した。しかしすでに大憲章の遵守の意思がないことを知った諸侯は,フランスの皇太子ルイの支援を求めてジョンに対抗した。ジョンはその争いの最中病で没した。
執筆者:佐藤 伊久男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報