日本大百科全書(ニッポニカ) 「ステンゲル」の意味・わかりやすい解説
ステンゲル
すてんげる
Charles Dillon Stengel
(1890―1975)
アメリカのプロ野球選手(左投左打)、監督。大リーグ(メジャー・リーグ)のブルックリン・ドジャース(1914年からブルックリン・ロビンス、32年からブルックリン・ドジャース、現ロサンゼルス・ドジャース)、ピッツバーグ・パイレーツ、フィラデルフィア・フィリーズ、ニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)、ボストン・ブレーブス(現アトランタ・ブレーブス)でおもに外野手としてプレー。1934年からはドジャース、ブレーブス、ニューヨーク・ヤンキース、ニューヨーク・メッツで監督として采配(さいはい)を振るった。ヤンキースで5年連続ワールド・シリーズ制覇、メッツでは球団創設当初の監督を務めた名監督であり、「オールド・プロフェッサー(老教授)」とよばれた。
7月30日、ミズーリ州カンザス・シティで生まれる。1912年、ドジャースに初昇格。俊足好打の外野手として鳴らし、球団名がロビンスに変わった14年は打率3割1分6厘をマーク、16年にはリーグ優勝に貢献した。1917年限りでパイレーツに移籍。その後、ナショナル・リーグのチームを転々としたが、1926年以降は大リーグに昇格できなかった。1925年のシーズン序盤でマイナー・リーグに降格されると、そこで監督兼任となった。翌26年からは別のマイナー球団に移籍し、監督兼外野手としてプレー。1931年を最後に現役を引退した。1932年からはドジャースのコーチとなり、34年に監督へ昇格。1936年まで指揮を執った。1938年からはブレーブスの監督に就任し、43年のシーズン途中まで采配(さいはい)を振るったが、優勝することはなかった。マイナーで数球団の監督を務めた後、1949年ヤンキースの監督に抜擢(ばってき)されると、黄金時代を築いた。戦力が豊富にそろっていたこともあり、就任1年目から1953年まで5年連続でワールド・シリーズを制した。1955年からも4年連続してリーグ優勝し、56年と58年はワールド・シリーズ優勝。1960年のリーグ優勝を花道に監督の座を退いたため、ヤンキースの監督として在任12年間で優勝できなかったのは2回だけというすばらしい成績を残した。1962年にナショナル・リーグの球団数拡張でメッツが誕生すると、71歳の高齢ながら監督に迎えられた。しかし、戦力不足がはなはだしく、3年連続して100敗以上での最下位となり、1965年のシーズン終盤にはユニフォームを脱いだ。翌66年にメッツの名誉スカウトとなり、75年に死去するまで同職を務めた。
選手としての14年間の通算成績は、出場試合1277、安打1219、打率2割8分4厘、本塁打60、打点535。監督としての通算成績(25年)は、1905勝1842敗、リーグ優勝10回、ワールド・シリーズ優勝7回。1966年に野球殿堂入り。
[山下 健]
『ジョゼフ・ダーソー著、宮川毅訳『ケーシー・ステンゲル伝 偉大なる大リーガーの伝説』(1978・ベースボール・マガジン社)』