イタリアの映画撮影所。イタリア語で〈映画都市〉の意。1935年,ムッソリーニの命令でローマの南方9kmの荒野に設立が計画され,36年に着工,翌年には早くも開所となり,ファシズム政権がこの撮影所になみなみならぬ期待を抱いていたことがわかる。敷地面積14万m2,ふつうのステージが10棟のほか,特撮,録音,編集用など計17のステージをもち,ヨーロッパ最大の国営撮影所として内外に広く宣伝された。第2次世界大戦後は半官半民の貸しスタジオとなり,アメリカのメジャー会社の大作や世界各国の映画が数多くつくられることになる。しかし1960年代後半から70年代にかけて,世界の映画産業の衰退とともに,チネチッタも経営危機に見舞われ,また施設の老朽化もそれに輪をかけることになった。80年代には施設の近代化が行われ,再び映画製作の中心地にすべく意欲的な運営が行われている。チネチッタは広義には撮影所のほかに,映画実験センター,国立映画ライブラリー,国立ルーチェ撮影所などの隣接する諸設備を含む。
執筆者:吉村 信次郎
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…〈イタリア映画最後の日〉と評されることになる史劇映画最後の超大作《ポンペイ最後の日》の4度目の映画化作品(1926)をアムレート・パレルミと共同で撮ったカルミネ・ガローネも,その後1926年から36年にかけて,フランス,イギリス,ドイツ,ハンガリーを転々とし,ムッソリーニ政権下の母国では音楽映画《おもかげ》(1935),スペクタクル史劇《シピオネ》(1937)などの国策映画を撮ることになる。
[国策映画と白い電話機映画]
知謀の勇将シピオネの決断と国民の愛国心によるローマ帝国の北アフリカ侵略の勝利を謳歌した《シピオネ》は,ムッソリーニのエチオピア侵略戦争を正当化した作品として(ムッソリーニ自身がこの映画の脚本を書いたともいわれる),また実際にアフリカでロケされ,そして建設されたばかりの映画都市チネチッタで作られた最初の超大作として,ムッソリーニのもっとも気に入った映画であった(1937年のベネチア映画祭で,のちのグラン・プリに相当する〈ムッソリーニ杯〉を授与された)。実際,イタリア史劇映画の伝統を感じさせる大スペクタクル歴史絵巻と評されたが,映画史家アーサー・ナイトによれば,ローマ帝国の兵士が腕時計をつけていたり,ローマの丘の上に電柱が立っていたりするといったずさんなところもあったという。…
※「チネチッタ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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