日本大百科全書(ニッポニカ) 「ディープ・パープル」の意味・わかりやすい解説
ディープ・パープル
でぃーぷぱーぷる
Deep Purple
イギリスのロック・バンド。ブリティッシュ・ハード・ロックの代名詞的存在であり、のちのヘビー・メタルに継承されるスタイル=様式美を確立したイギリスの伝説的ロック・バンドである。長い活動歴を通してメンバーの入れ替わりが激しく、黄金期と呼べたのはほんの数年間だが、かつては日本のアマチュア・バンドのほとんどが「ハイウェイ・スター」「スモーク・オン・ザ・ウォーター」(ともに1972)、「バーン」(1974)といった彼らの代表曲を一度はコピーしたくらい、絶大なる人気と影響力を備えたバンドでもある。
1968年にイギリスで結成。当初のメンバーは、ジョン・ロードJon Lord(1941―2012、キーボード)、リッチー・ブラックモアRitchie Blackmore(1945― 、ギター)、イアン・ペイスIan Paice(1948― 、ドラムス)、ニック・シンパーNick Simper(1946― 、ベース)、ロッド・エバンズRod Evans(1945― 、ボーカル)の5人で、サウンド的にはキーボードを前面に出したアート・ロック(ジャズやクラシック、サイケデリック等の要素を含んだブリティッシュ・ロックの通称)だった。だがこの時点ではイギリスよりアメリカで人気があったくらい本国ではマイナーな存在だった。1969年に最初のメンバー交替が行われ、イアン・ギランIan Gillan(1945― 、ボーカル)とロジャー・グローバーRoger Glover(1945― 、ベース)が加入。音楽的イニシアティブも、ロードからブラックモアの手に移り、ハードでヘビーなロックへと方向転換がなされる。1970年リリースの『イン・ロック』がその嚆矢で、ワイルドなブラックモアのギターとギランのハイトーン・ボイスが絶大なる人気を獲得。以後『ファイアボール』(1971)、『マシン・ヘッド』(1972)とヒット作を連発し、1972年(昭和47)に初来日。この時の実況録音がのちに『ライブ・イン・ジャパン』(1973)としてリリースされ、スタジオ録音以上にエキセントリックなライブ・ステージが語り草となり、結果的に人気、実力とも最盛期を迎える。しかしメンバー間の不仲から、1973年にギランとグローバーが脱退。新メンバーとして迎えられたのが元トラピーズのグレン・ヒューズGlenn Hughes(1952― 、ベース)と、プロとしての経験がほとんどない新人ボーカリスト、デビッド・カバーデールDavid Coverdale(1949― )だった。
1974年新しい布陣による最初のアルバム『紫の炎』をリリース。従来のハード&ヘビー路線に、新人2名によるブルースやファンクといった、それまでのディープ・パープルにはない新しい感覚が加わったことも手伝って、大絶賛で迎えられる。だが、その新感覚を気に入らなかったのが音楽的リーダーのブラックモアで、1975年のヨーロッパ・ツアーを最後に、今度はブラックモアがバンドを脱退、以後彼は新バンド、レインボウの結成に向かう。サウンドの要、ブラックモアの脱退で、残されたメンバーは解散も考えたが、レコード会社との契約等もあって活動継続を決意。アメリカ人ギタリスト、トミー・ボーリンTommy Bolin(1951― )を迎えて『カム・テイスト・ザ・バンド』を発表。ディープ・パープルという先入観を外して聴けば決して悪くはない作品だが、ブラックモアのギターを望む従来のファンを納得させるまでには至らず、1976年解散が発表される。その後、各メンバーは新グループを結成するなど音楽活動を続けるが、ディープ・パープルと比較しうるほどの成果を見せたのは、ブラックモアのレインボウ(アメリカでは成功しなかった)と、カバーデール率いるホワイトスネイクくらいであろう。
1984年ギラン、グローバー、ブラックモアを含む全盛期のラインナップでの再結成が発表され、アルバム製作やワールド・ツアーも敢行されたが、その後もメンバー間の不和は続き、ギランがバンドを出入りしたり、その穴を元レインボウのジョー・リン・ターナーJoe Lynn Turner(1951― )が埋めるなど、ディープ・パープルを名乗る必然性も徐々になくなっていく。そして1994年にはブラックモアが再びバンドを脱退。ジョー・サトリアーニJoe Satriani(1956― )の代行を挟んで元カンザスのスティーブ・モーズSteve Morse(1954― )が1996年に加入。メンバー交替も落ち着きをみせたかのように思えたが、今度はロードがツアー・メンバーから外れ、その後に元レインボウのドン・エイリーDon Airey(1950― )を迎えて、ディープ・パープルの活動は続けられている。
一連の人間関係上のトラブルや強引なマネージメントも手伝って、ディープ・パープルの権威もだいぶ地に落ちてきた。しかも様式美として崇(あが)められてきた彼らのスタイルも、逆にいえば画一性、平板さの一因とも見なされ「熱中しやすいが、飽きられるのも早いロック」の典型という、シビアな評価もある。しかし振り返ってみて、年間アルバム2枚という彼らのリリース・サイクル等を考慮すると、かなり商業ベース主導な活動を強いられていた感も強く、どんなにメンバーが入れ替わってもディープ・パープルというブランドさえあればファンは離れない、という悪しき前例をつくってしまったところもある。そういうコマーシャル路線のただ中で、よく頑張ってきたという見方もできるが、もう少し引き際が潔ければ、より美しい伝説の中で語り継がれたであろう。
[木村重樹]