日本大百科全書(ニッポニカ) 「デカルト派」の意味・わかりやすい解説
デカルト派
でかるとは
cartésien フランス語
デカルト思想を継承し、発展させた人々の総称。デカルトの影響はまず長期間居住していたオランダに現れた。レギウスHenricus Regius(1598―1679)やベッケルBalthasar Bekker(1634―98)などである。そのうちレギウスは熱烈なデカルト信奉者であったのに、しだいに経験主義的傾向を強め、デカルトの論敵となったことで知られる。また、オランダにはゲーリンクスがおり、デカルトの残した心身問題の解決を図り、機会原因論を主張した。そして、その立場から特色ある倫理学説が示された。
フランスではデカルトの生前にも熱心な支持者はいたが、彼らが大きな勢力をもつようになるのは、1650年デカルト没後10年以上たってからであった。そのきっかけは、クレルスリエClaude Clerselier(1614―84)が刊行したデカルトの書簡や人間論などの遺稿集であった。そこで、生前も指摘されたアウグスティヌスとの親近性が改めて注目され、デカルト哲学の権威づけに利用されていく。17世紀後半にはデカルト哲学自体が権威となる。そうしたなかで、デカルト哲学を多方面へ発展させることが試みられた。ロオーJacques Rohault(1620―72)はデカルト自然学を経験主義的に発展させ、次の世紀にニュートンが紹介されるまでの標準的教科書を残す。同じ傾向の人にレジスPierre Sylvain Régis(1632―1707)があり、デカルト哲学の普及、通俗化に力があった。また、神学者に与えた影響も大きく、デガベdom Robert Desgabets(1636―78)はデカルト哲学に基づく理論神学を目ざした。ヤンセン主義者(ジャンセニスト)の指導的神学者アルノーは『ポール・ロワイヤル論理学』でデカルトの方法を適用し、アルノーの指導を受け、フランスにおけるヤンセン主義運動の中心であったポール・ロワイヤルではデカルトの動物機械論の立場から動物の解剖が盛んに行われたという。機会原因論者にはコルドモアとマルブランシュがおり、その先駆者としてラ・フォルジュLouis de la Forge(?―1666ころ)があげられる。コルドモアは自然学に機会原因論を採用し、また特色ある言語論を残した。マルブランシュはデカルトとアウグスティヌスの総合を目ざしたとされることが多い。だが、その壮大な形而上(けいじじょう)学の体系は、すでに単なるデカルト派を超える独自性を示している。
[香川知晶]
『桂寿一著『デカルト哲学とその発展』(1966・東京大学出版会)』