改訂新版 世界大百科事典 「ハザル族」の意味・わかりやすい解説
ハザル族 (ハザルぞく)
Khazar
6~9世紀を中心に南ロシア草原で活動した,おそらくアルタイ系(なかでもトルコ系)の遊牧民族。少なくとも6世紀半ば以降,西突厥の宗主権下に南ロシア草原に明確に姿を現し,7世紀前半にはビザンティン帝国と同盟してササン朝ペルシアと争い,7世紀半ば,西突厥が衰えると独立してハザル・カガン国を形成した。ブルガル・オノグル部族連合を破って南ロシア草原の覇権を握り,641・642年以降はカフカス地帯の領有をめぐって新興のアラブと対立,また7世紀後半までに南西のクリミア半島の大半を領有した。8世紀に入ってもアラブ軍との戦いを続けたが,737年,後のウマイヤ朝カリフ,マルワーン2世に率いられたアラブ軍がハザル地域奥深く侵入して勝利を得ると,ハザル・カガン(カガンは〈王〉の意)は一時的にイスラムを受容しウマイヤ朝カリフの宗主権を認めた。しかし,ほどなくカリフの宗主権下を脱し,再びアラブと争ったが,9世紀になると戦いもやみ,ボルガ下流域の首都アティルは国際貿易の中心地として栄え,ムスリム商人でこの地に移住する者も多く,ハザル人の中にはイスラムに改宗する者も増加した。ただしカガンをはじめとする王族は,9世紀の初めユダヤ教に改宗した。国家は9世紀の後半になると国力が衰え始め,新興のルスをはじめ,ペチェネグ,オグズなどの圧迫を受け,965年にはキエフ・ロシアのスビアトスラフの遠征によって首都を攻略され,事実上崩壊し,以後徐々に史上から姿を消した。カガン国の国家組織はアルタイ系遊牧国家の伝統を継承し,宗教的権威をもつカガンのほかに,実際の政務を行うシャド,ベグらが存在した。支配階級は冬をアティルなど都市の周辺で過ごし,夏を草原地帯で過ごすという,いわば半遊牧の生活を送った。国内では農業のほかに漁業も行われたが,隊商にかけられる関税も国家の重要な財源であった。なおアラブはカスピ海を〈ハザルの海〉と呼んだ。
執筆者:間野 英二
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報