アラブの征服者によって642年に初めてエジプトに築かれた,ナイル東岸の軍営都市(ミスル)。現在のカイロの南約3kmに位置し,〈古カイロOld Cairo〉と呼ばれる。969年のファーティマ朝によるカイロ遷都まで,行政,軍事上の中心として繁栄したが,以後は陶器,ガラス,紙,銅などの生産地として,あるいはナイル川河口の港湾商業都市として13世紀まで存続した。マムルーク朝以降は顧みられなくなり廃墟と化していった。フスタートは,ミスル・アルアティーカ,またはミスル・アルカディーマとも呼ばれ,古代ローマ時代の城塞址〈バビロン〉(カスル・アッシャムー),コプト教のゲオルギウス教会,ムアッラカ教会,エジプト最古のアムルのモスク(642)などの東側に位置する。この都市遺跡の考古学的な調査発掘は1912年より行われている。
執筆者:杉村 棟
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…633年秋,シリア征服に一部将として参戦した。639年12月,突然エジプトに転戦し,642年にカイロの前身である軍営都市フスタートを建設した。カリフ,ウスマーンに総督を罷免されたが,第1次内乱(656‐661)ではムアーウィヤの右腕として活躍し,ウマイヤ朝の創建に貢献してエジプト総督に復帰した。…
…古代末期からコプト時代にかけては五大司教座の一つとしてローマ,コンスタンティノープル等に次ぐ重要性をキリスト教界に占めた。アレクサンドリア学派【金沢 良樹】 641年アラビア半島からやってきたアムル・ブン・アルアース将軍の率いるイスラム軍は,バビロン城(後のフスタート)に続きアレクサンドリアを攻略,同年11月に降伏条約が結ばれ,翌年9月ビザンティン軍は撤退した。新都フスタート(現,カイロ郊外)が建設され,エジプトの首都になったものの,アレクサンドリアはエジプト第2の町として存在を続け,ギリシア科学の翻訳など学芸・文化のうえで重要な位置をしめた。…
…4世紀末テオドシウス帝によるキリスト教国教化はエジプトから古来の神々を根絶し,エジプト人の国民的自覚はコプト教会に受け継がれていった。【屋形 禎亮】
【イスラム時代】
ビザンティン帝国をヤルムークの戦(636)に破り,シリアを征服したアラブ・イスラム軍は,次いでアムル・ブン・アルアースの指揮の下にエジプトへ侵攻し,641年にはビザンティン帝国のバビロン城を陥れて,翌年ここにフスタートFusṭāṭの町を建設した。この事件は,エジプト史ではファトフ(開くこと,征服)とよばれ,以後,エジプトのイスラム化,アラブ化が始まる。…
…また,南東と北東にある広大な墓地(〈死者の町〉とよばれる)に,農村からの流入民や中東戦争の難民が住みついて都市化した部分もある。旧市街には,フスタートにあるカイロ最古のアムルのモスク(642建設)をはじめ,イブン・トゥールーン,スルタン・ハサン,アズハル,ムハンマド・アリーなど数百のモスクが集中しており,観光客向けのスーク(市)やみやげ物製造所と,織物,香料,靴などの問屋街が多く,住民は中下層である。新市街は,1952年のエジプト革命後タハリール(解放)広場と改名されたナイル川に近い広場(もとイスマーイール広場)から,放射状に整然とした街区が展開しており,広場より南東のルーク門のあたりに政府機関が集中し,北東部が繁華街とビジネス・センターになっている。…
…アラブ・ムスリムの勢力が,アラビア半島の外へと拡大し各地を征服した時に,征服地の統治の拠点として,またその後の征服活動の基地として軍営都市が建設された。イラクのバスラやクーファ,エジプトのフスタート,チュニジアのカイラワーンなどは,新たに建設されたミスルの代表的な例である。またシリアのダマスクスやヒムスでは,既存の都市の一部を,住民を移転させてアラブ軍の駐屯地とした。…
※「フスタート」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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