改訂新版 世界大百科事典 「フルシェフスキー」の意味・わかりやすい解説
フルシェフスキー
Mikhailo Serhiiovich Hrushevskii
生没年:1866-1934
ウクライナを代表する歴史家。ウクライナ民族運動の指導者。西ウクライナのホルム市(現,ポーランド領)生れ。キエフ大学に学び,V.アントノビチに師事した。1894年オーストリア領にあったリボフ(リビウ)大学にウクライナ史の初代教授として赴任し,歴史研究と並行して,リボフにおけるウクライナ文化活動・出版活動の中心であったシェフチェンコ協会の会長(1897-1913)として精力的に活躍した。1913年キエフに帰り,翌年の第1次世界大戦勃発とともに民族運動のリーダーとして逮捕された。17年の二月革命により釈放され,キエフに成立したウクライナ中央ラーダの議長となった。連邦主義の立場に立ち,党派的にはウクライナ・エス・エル党を支持した。短命に終わったウクライナ人民共和国の大統領となったが,18年ウィーンに亡命した。24年招かれて帰国し,ウクライナ科学アカデミー歴史部の部長,ウクライナ科学アカデミー会員となり,再び精力的に歴史研究に没頭した。29年にはソ連邦科学アカデミー会員に選ばれたが,31年民族主義的歴史家として批判され,逮捕された。34年北カフカスのキスロボーツクで死亡した。フルシェフスキーの著作は公刊されたものだけでおよそ2000点にも及ぶが,代表作としては未完に終わった《ウクライナ・ルーシの歴史》10巻(1898-1937),《ウクライナ文学史》5巻(1922-26),《ウクライナ民族史概説》(1904)などがある。ウクライナを代表する歴史家であるが,1930年代以後,ソ連ではブルジョア歴史学者と呼ばれた。
執筆者:中井 和夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報