ウクライナ(読み)うくらいな(英語表記)Ukraine 英語

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ウクライナ」の意味・わかりやすい解説

ウクライナ
うくらいな
Ukraine 英語
Ukraina ウクライナ語

ヨーロッパ東部、黒海に面する共和制国家。かつてはソビエト連邦の構成共和国の一つ、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国Украинская ССР/Ukrainskaya SSRであったが、1990年7月共和国主権宣言、1991年8月独立宣言し、国名を「ウクライナ」とした。西はポーランド、スロバキア、ハンガリー、ルーマニア、モルドバに、北はベラルーシ、東はロシアに接する。面積60万3500平方キロメートル、人口4824万0902人(2001センサス)、4474万人(2014年世界銀行)。首都はキーウ。国内にクリミア自治共和国と24州、2特別行政区がある。

[渡辺一夫・木村英亮]

自然

国土の西端近くに東カルパティア山脈の一部(最高点は2061メートル)がそびえ、その東にはポドリスク丘陵が張り出している。国土の中央部は、ドニプロ(ドニエプル)川、ドニステール(ドニエストル)川、ブーフ(南ブク)川の流れる低地となる。ドニプロ川はこの国最大の川で、国土総面積の約2分の1がドニプロ水系に属する。その支流プリピャチ川はウクライナとベラルーシとの国境地帯にあたり、砂堤と湿地が交替する、ポレシエとよばれる独特の景観をみせる。国土の東部にはロシアとの国境近くにドネツ丘陵(標高250~350メートル)が広がり、地下資源の豊かな丘陵として知られる。国土の南にはクリミア半島クリム半島)が黒海に突出し、標高1500メートルを超える急峻(きゅうしゅん)なクリム山脈が南縁を東西に走る。

 気候は穏やかな大陸性気候であるが、南西から北東に行くにつれ厳しさを増す。月平均気温は、1月は4℃(クリミア半島南岸)~零下8℃(北東部)とかなり差があるが、7月は23℃~18℃と差が小さい。年降水量はカルパティア山脈で1600ミリメートルを超すが、北部のポレシエで700ミリメートル、南部の黒海沿岸で300ミリメートルに減少する。一般に雨は春から初夏に多いが、その季節には中央アジアから不安定な乾燥した気団がスホベイとよばれる強風となってウクライナ南部に侵入し、農業に大きな災害を与えることがある。

 植生は、北部、西部にマツ、カシワ、ヤマナラシなどの混合林、中央部低地に広葉樹林と草原、南部には乾燥した景観をみせるヨモギやナギナタガヤなどの草原と、塩分が地表に吹き出してこびりついた沼沢地がみられる。国土の中央部を東西に黒土帯が横断し、その南にも濃い栗色土壌が分布し、世界有数の肥沃(ひよく)な農地となっている。国土のうち、かつて森林だったと推定される面積の90%がすでに開拓されて農地になったり、火入れを繰り返したために草地となった。国内には9か所の自然保護区(合計12万7000ヘクタール)が設けられている。

[渡辺一夫・木村英亮]

住民

ウクライナの主要民族は、ウクライナ人77.8%、ロシア人17.3%、続いてベラルーシ人モルドバ人クリミア・タタール人、ユダヤ人などである(2001)。

 人口動態の特色をみると、自然増加率は1985年から1992年の比較で約3%と低いが、都市人口の全人口に対する割合は、1940年の34%から1980年の62%、1994年の68%に上昇しており、都市への人口集中が進行していることがわかる。なお、1975~2003年の人口増加率はマイナス0.1%、2003年の都市人口率は67.3%となっている。主要都市の人口は、キーウ289万3215人、ハルキウ143万0515人、オデーサ99万3831人、ドニプロ99万0381人、ドネツク91万0252人(2018推計)。

[渡辺一夫・木村英亮]

歴史

紀元前6~前5世紀、黒海沿岸にギリシアの都市国家がいくつか現れたが、現在のウクライナ人の歴史の出発点は、紀元後4~7世紀にドニプロ川沿いの中央地帯に東スラブ族が入り、9世紀にキーウ(キエフ)を中心とするキーウ・ルーシ(キエフ大公国)が出現してからである。この国家は、ギリシア正教とビザンティン文化を取り入れて栄えたが、13世紀初めモンゴルの侵入によって崩壊し、これ以後、東スラブ族はロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人に分かれることになった。

 14世紀後半、北部はリトワ大公国に、南西部はポーランドに併合され、西部のガリツィアはハンガリーの支配下に入った。農民はポーランド人領主の農奴となったが、ドニプロ川下流に逃亡した農民集団はコサックを形成した。1569年のポーランドとリトワの合併は、ポーランド貴族による搾取とカトリック教会による正教徒抑圧を強めた。クリミア・タタールとトルコも侵入した。1648~1654年、ウクライナ民族はボグダン・フメリニツキーの指導のもとにポーランドの支配に反乱、ロシア皇帝に保護を求め、ドニプロ川左岸とキーウがロシア帝国に併合された。18世紀後半、ポーランド分割によりドニプロ右岸もロシア領となり、ガリツィアはオーストリア領となった。黒海沿岸とクリミアもトルコから獲得した。

 大北方戦争の際、スウェーデンのカルル12世の軍隊がウクライナに侵入したが、1709年ポルタバの戦いでピョートル大帝に粉砕された。このころからウクライナの自治は制限され、18世紀末にはエカチェリーナ2世によって完全にロシアの一部とされた。19世紀にはロシア化政策に対して詩人のタラス・シェフチェンコも加わった民族運動が起こってくる。19世紀後半、ウクライナはヨーロッパの穀倉とよばれるようになったが、他方ドンバス(ドネツ炭田)には石炭業、鉄鋼業が発展し、1913~1914年にはロシア帝国の石炭の71%、鉄鋼の58%を生産した。労働運動も活発になり、1905年革命の際は、キエフ、オデッサ(現、オデーサ)にソビエトが形成された。

 1917年の二月革命後、臨時政府に対抗して3月にキエフに中央ラーダ(評議会)が設立されたが、ボリシェビキの勢力は十月革命後12月にハリコフ(現、ハルキウ)で開いたソビエト大会でウクライナをソビエト社会主義共和国と宣言し、ソビエト政府を組織、1918年1月にキエフを攻撃し中央ラーダを廃止した。しかしまもなくウクライナ全域をドイツ・オーストリア軍が占領、その下で地主勢力によるゲトマン・スコロパツキーPavel P. Skoropadskii(1873―1945)政府が4月に成立したが、農民はパルチザン闘争を展開、占領軍が自国の革命のため撤退したのちは民族主義者ペトリューラSimon Petlyura(1879―1926)が継ごうとしたが、1919年初めソビエト政府が復活した。この後、反革命のデニキン軍、農民の支持を得たマフノ軍、赤軍、三者絡み合いの戦闘や、1920年4~10月のポーランド・ソビエト戦争と反革命ウランゲリ軍との戦争を経てソビエト政府が確立し、1922年12月末、ロシア、ベラルーシ、ザカフカスの3共和国とソ連邦を結成した。工業、農業ともに発展していたウクライナは、ソ連の経済建設において中核的な役割を果たしたが、全面的集団化のなかでの1932年の大飢饉(ききん)や、1930年代後半大粛清期のウクライナの指導者・党員の大量逮捕、処刑は、大きな悲劇であった。

 1939年、西部ウクライナがポーランドから再統合され、1940年にはベッサラビアの一部と北部ブコビナも領土に加えられた。第二次世界大戦時の1941年、ウクライナはナチス・ドイツ軍によって一挙に全土を占領され、500万以上の住民が殺され、徹底的に破壊、略奪された。しかし1944年初めには解放を達成し、ただちにソ連の他の諸共和国、諸民族の援助を得て復興を始め、戦後は隣接する東ヨーロッパに人民民主主義諸国が生まれ、協力の関係がつくられた。ザカルパト・ウクライナ(ザカルパッチャ州)がチェコスロバキアから再統合され、また1954年にはクリミア地方がロシア共和国から譲渡された。

 1980年代後半、ソ連においてペレストロイカ(改革)が進行するなかでウクライナは1990年7月16日に国家主権を宣言した。そこには、ウクライナとソ連両市民権の保障、経済問題の決定権、ウクライナ語使用の推進、国内軍組織がうたわれている。10月25日に開かれた民族派「ルーフ」の第2回大会では、独立ウクライナ国家の再生を目標とすることが決められた。1991年3月の国民投票では連邦維持が多数を得て支持されたが、ソ連の八月クーデター後の8月24日に最高会議は国名をウクライナ・ソビエト社会主義共和国からウクライナに変え独立を宣言した。その後ロシアが国境問題などを提起したことはウクライナの民族感情を刺激し、12月1日の投票では、クリミアなどロシア人の多い地域でさえ独立支持が多数を占め、ソ連から独立する姿勢を強めたウクライナ共産党のクラフチュクLeonid Kravchuk(1934―2022)最高会議議長が独立後初の大統領に選ばれた。

 クラフチュクは、ロシア大統領エリツィン、ベラルーシ最高会議議長シュシケビチStanislav Stanislavovich Shushkevich(1934―2022)とともに12月8日にベラルーシのミンスクでスラブ3か国による独立国家共同体(CIS)を創設した。12月21日、カザフスタンのアルマ・アタ(現、アルマトイ)で旧ソビエト連邦構成共和国のうち、バルト三国とジョージア(グルジア)を除く11か国が独立国家共同体参加条約に調印し、ソ連邦は解体された。

[渡辺一夫・木村英亮]

政治

1994年3~4月、独立後最初の最高会議選挙が行われ、共産党、社会党、農民党の左翼連合が圧勝し、ソ連からの完全独立を主張した「ルーフ」は敗れた。また7月10日の大統領選挙決選投票では、ソ連最大の戦略ミサイル工場ユジマシの企業長から首相になった実務派で親ロシア派のクチマが、クラフチュクを破って勝った。クチマは8月、政府と州議会を大統領直轄とし、経済改革の推進を図った。最高会議はそれに反対し、行政機関も同調した。1996年6月、最高会議は、その権限を強化した新憲法を採択した。これによると、大統領の任期は5年、最高会議は一院制で450議席、首相は大統領が指名し、最高会議の3分の2以上の賛成で承認される。1998年3月の最高会議選挙では共産党が第一党となった。1999年11月の大統領選挙でクチマは再選され体制を強化。2002年3月の最高会議選挙の結果、「統一ウクライナのために」(クチマ支持派の政党連合)と「我らのウクライナ」(反クチマ派の政党連合)が二大勢力となったが、その後「統一ウクライナのために」は分裂し、連立与党を形成した。2004年11月クチマ大統領の任期満了と退任に伴い、大統領選挙が行われ、親ロシア派でクチマに支持される与党候補ヤヌコビッチ首相Viktor Yanukovych(1950― )と、親欧米路線を掲げる野党候補ユシチェンコの対決となった。当初、ヤヌコビッチの勝利が伝えられたが、不正選挙疑惑が発覚、同12月再選挙が行われた。その結果、ユシチェンコが当選、2005年1月大統領に就任した。このときの不正選挙に対して行われた大規模抗議行動は、野党のシンボルカラーにちなみ「オレンジ革命」とよばれている。同年2月、ティモシェンコYulia Volodymyrivna Tymoshenko(1960― )が首相に就任し、新内閣が発足。しかし9月、ユシチェンコは閣僚内の対立などからティモシェンコら全閣僚を解任、後任にドニプロペトロウスク州知事エハヌロフYuriy Ivanovych Yekhanurov(1948― )が任命された。2006年1月、大統領の権限縮小を骨子とする改正憲法が発効。同年3月に実施された最高会議選挙では、ヤヌコビッチ率いる「ウクライナの地域」(地域党)が第一党となった。ティモシェンコ率いる「ティモシェンコ連合」は第二党、ユシチェンコ率いる与党「我らのウクライナ」は大敗し第三党となった。選挙後に「ウクライナの地域」「我らのウクライナ」、社会党、共産党の連立が成立し、ヤヌコビッチが首相についたが、すぐに「我らのウクライナ」はヤヌコビッチと対立し、連立を脱退した。ユシチェンコとヤヌコビッチの対立はますます激しくなり、その決着をつけるため、2007年9月に最高会議選挙が行われた。この選挙で「ウクライナの地域」は第一党となったが、ユシチェンコは第二党の「ティモシェンコ連合」と第三党の「我らウクライナ・国民自衛」の連立を選択、ティモシェンコがふたたび首相となった。2010年1~2月の大統領選でヤヌコビッチが当選(3月就任)、2014年5月の大統領選ではポロシェンコPetro Poroshenko(1965― )が当選し、6月に就任した。首相は2014年2月から2016年4月までアルセニー・ヤツェニュークArseniy Yatsenyuk(1974― )が務めた。

[渡辺一夫・木村英亮]

 2019年3月の大統領選ではゼレンスキーVolodymyr Zelenskyy(1978― )が当選し、5月に就任した。

[編集部]

ロシアとの関係

ウクライナ情勢を理解するためには、この国が特徴をもついくつかの地域から構成されていることを知ることが必要である。東部のドネツク(旧スターリノ)などのある地域はロシア人が多い。その西のポルタバやキーウの地域は小ロシアとよばれ、コサックの自治国家があった地域である。その西のドニプロ右岸地域はポーランド分割でロシア帝国に併合されたポーランド地主の多い地方であった。その南のオデーサなどの地域はロシア人、ウクライナ人、ユダヤ人が植民した地域で、さらに北西にはポーランド分割でオーストリアに属していたガリツィアがあり、その南にはハンガリー領であった地域がある。ウクライナでは西部地域は反ロシア感情が強い。また、クリミア半島は戦前クリミア・タタール人の自治共和国があったが、1944年にクリミア・タタール人は中央アジアなどに追放され、その後自治共和国は解体された。その後1991年にクリミア自治共和国となり、1992年に追放されていたタタール人の生残り40万人の半数が帰還した。第二次世界大戦後の1954年にロシアからウクライナへ帰属替えされたが、そのためクリミアにはロシア人が多い。

 ソ連解体後、戦術核はロシアに移送され、1994年1月、アメリカ、ロシア、ウクライナ、各首脳の核廃棄合意文書調印によって、ウクライナの核は7年以内に全廃されることになり、1994年12月にウクライナは核不拡散条約(NPT)に加盟した。クリミア半島南西部にあるセバストポリは、ロシアがソ連時代から黒海艦隊の根拠地としており、ロシアとウクライナはソ連邦の解体時からこの帰属をめぐって対立していたが、1997年5月、両国は黒海艦隊分割などを定めた3協定に調印。1999年3月ウクライナ最高会議によって同協定が批准された。

 人口の7割をロシア人が占めるクリミアでは、以前から分離独立問題がおこっていて、1992年5月にウクライナからの独立条項を含む憲法が採択されたが、ウクライナの圧力で撤回された。1994年1月にはクリミアで親ロシアのメシュコフYuriy Meshkov(1945―2019)大統領が誕生、4月のクリミア最高会議選挙でウクライナからの独立派で親ロシア派の勢力が圧勝、5月20日に1992年制定の憲法を復活させた。これに対してウクライナ議会は、ただちにその無効を決議し、1995年3月に「クリミア共和国大統領」の地位を廃止した。なお1997年5月にロシアとの間で国境不可侵を含む友好協力条約に調印、クリミアのウクライナ帰属が確定した。

 2007年10月、ロシアはウクライナに供給している天然ガスの値上げを通告、これを契機にウクライナとロシアの対立が激化した。2009年1月にロシアはウクライナと、ウクライナ経由のヨーロッパ向け天然ガスの供給を一時停止したが、その後すぐに供給は再開された。

 ウクライナはCIS諸国が1993年9月に結成した経済同盟には、トルクメニスタンとともに参加しなかったが、1994年4月には準加盟を決定した。その後、ロシアを中心にユーラシア経済共同体が結成されたが、ウクライナは参加せず、ジョージア、アゼルバイジャン、モルドバとともにGUAM(民主主義・経済発展のための機構)を結成した。さらに隣接諸国との関係強化にも努めている一方、北大西洋条約機構(NATO)への接近を図っている。

[渡辺一夫・木村英亮]

産業・経済

鉱工業

ウクライナは多くの地下資源、先進的な重工業、豊かな農産の国として知られ、開発もかなり進んでいる。国民経済面でとくに重要なのはドネツク州とドニプロ川沿いの地域で、この両者は複雑に結び付いて世界有数の工業地帯となっている。これに大きな役割を果たすドニプロ川の開発も進み、キーウ、クレメンチュク、カホウカ、ドニプロなどのダム、閘門(こうもん)、発電所があり、ドニエプル・カスケードと称される電源地帯をなしている。ドニプロのダムはドニエプロゲスと称され、1932年完成のアーチ式ダムである。これらにより、ドニプロ川は、最上流部と最下流部を除けば、階段状に多くの湖が連続することになった。カホウカ貯水池からは「南ウクライナ―北クリミア運河」が南下し、乾燥したこの地方の農地開発に役だっている。

 東部のドネツ炭田は世界でも有数の採炭地で、ソ連時代には全ソ連の約3分の1を産出した。瀝青炭(れきせいたん)、無煙炭が多く、品質もよい。一方、中部には世界有数の規模のクリビー・リフ鉄山があり、豊富な鉄鉱石を産する。この両者の結び付きが、ウクライナの鉄鋼業の大規模な発展を可能にした。鉄鉱石はクリビー・リフを中心に、石油はカルパティア山脈東部で産出している。天然ガスは豊富で、東部のハルキウ、北部のチェルニヒウなどの付近で生産している。このほか、石膏(せっこう)(北部ブコビナ)、カリ塩などの鉱物資源がある。

 ドンバスとドニプロの工業都市は、ドネツク、マキイフカ、ホルリフカ、ザポリージャ、ドニプロ、ドニプロジェルジンシクなどで、工業製品は工作機械、製鋼(ザポリージャなど)、特殊鋼、自動車(ザポリージャのコムナール工場など)、タービン、航空機、電子機器、窒素肥料など多岐にわたっている。そのほか、国内に分散する工業都市は多く、キーウ(精密機器、小型カメラ)、ハルキウ(発電機、トラクター)、ルハンシク(世界有数規模の鉄道車両工場)、シンフェロポリ(テレビ)、リビウ(貨物自動車)などの各都市がある。

[渡辺一夫・木村英亮]

農業

農業は、近郊野菜、近郊乳酪農、穀物、工芸作物から、粗放な乾燥地の放牧、移牧(クリム山脈)など、多くの形態がみられる。国土総面積の約70%が農牧地で、農牧地面積の80%は播種(はしゅ)地、そのなかばが穀作地であり、ヨーロッパの穀倉としての役割を果たしている。一般に秋まき小麦とトウモロコシが多く、ポレシエとカルパティア山脈地域ではライ麦、ソバ、ヒエ、黒海沿岸では灌漑(かんがい)による水稲耕作が行われる。工芸作物では、サトウダイコン(テンサイ)、ヒマワリ(種子の油を食用、工業用に利用)、亜麻(あま)、麻、ホップなどが多い。

[渡辺一夫・木村英亮]

独立後の経済事情

ソ連では各構成共和国が分業により一定の産品を専門的に生産して全体を支える産業構造がとられていたが、独立後はこの分業体制の崩壊によって、原材料、部品等の供給の滞りが生じた。これが全面的市場経済化政策に重なり、ロシアより激しい生産の減少とインフレの進行をもたらした。とくに石油不足の打撃は大きい。欧米諸国は1986年に大事故をおこしたチェルノブイリ原子力発電所の閉鎖を要求し、ウクライナ側はエネルギー不足を理由に拒んでいた。しかし、先進7か国(G7)の経済支援により2000年12月、チェルノブイリ原子力発電所は全面閉鎖となった。

 物価上昇でルーブルが不足したため1992年1月ルーブル通貨にかわるカルボバネツ・クーポンを導入し、11月にルーブル圏を離脱した。1996年9月暫定的に使用していたカルボバネツ・クーポンにかえて、新通貨フリブニャ(グリブナ)Hryvniaを導入した。

 2000年以降は近隣諸国の経済回復などの影響もありプラス成長を続けたが、2008年夏以降、鉄鋼需要の頭打ちに加え、世界的な金融危機の影響で財政状況は悪化。さらに鉄鋼産業やロシア向け輸出の落ち込みで2013年には経済成長率が0%となり、2014年には東部紛争の影響などによる打撃を受けて-6.8%のマイナス成長となった。同年の輸出総額は501億ドル、輸入総額は498億ドル。主要輸出品目は鉄、非鉄金属、穀物、機械、輸入品目は石油、天然ガス、機械、電子機器。おもな貿易相手国は輸出入ともにロシアが第1位で、以下、輸出ではトルコ、エジプト、輸入では中国、ドイツとなっている。

 2008年に起きた世界的金融危機はウクライナにも重大な影響を及ぼし、通貨フリブニャの為替レートが急落し、経済危機に陥った。そのため、IMF(国際通貨基金)からの融資を受けた。なお、2008年2月にWTO(世界貿易機関)に加盟している。

[渡辺一夫・木村英亮]

交通

交通輸送体系は、穀物などの農産物、比較的重量の大きい固体燃料や重工業製品を輸送する必要から、著しく発達している。鉄道総延長2万2473キロメートルで、9250キロメートルが電化されている(2004)。主要鉄道網はハルキウ、キーウ、リビウを中心として放射状をなし、モスクワ―キーウ―プラハ(チェコ)間などの国際列車も通っている。このほかドンバス、ドニプロ相互間と黒海沿岸を結ぶ鉄道や自動車道路はよく発達し、ドニプロ川を主体とする水上交通がこれに加わって、交通はきわめて便利である。黒海、アゾフ海沿岸の海港は、古くから石炭、穀物、工業製品の輸出で繁栄し、おもな港湾都市にオデーサ、マリウポリ、ケルチなどがある。

[渡辺一夫・木村英亮]

言語

ウクライナ語は1989年11月の言語法によって国家語と規定され、初等・中等教育でもウクライナ語化が進んでいる。キーウ大学では1992年に講義をすべてウクライナ語で行うこととし、5年間の猶予期間をおいて、できない教員は解任するとした。

 宗教においてもウクライナ化が進み、ロシア正教へ統一させられていたウクライナ正教会と、1990年に復活した独立正教会が合同して1992年6月ウクライナ正教会を結成した。

[渡辺一夫・木村英亮]

日本との関係

1992年(平成4)1月に外交関係を樹立。1993年1月在ウクライナ日本国大使館、1994年9月在日ウクライナ大使館が開館。対日貿易は輸入が自動車、機械・装置類、電気電子機器など6億1000万ドル、輸出が穀物、鉄鉱石・スラグ、鉄鋼品など2億1000万ドル(2014)。1995年3月にクチマ大統領、2005年7月にユシチェンコ大統領、2009年3月にティモシェンコ首相が来日。

[渡辺一夫・木村英亮]

『中井和夫著『ウクライナ・ナショナリズム――独立のディレンマ』(1998・東京大学出版会)』『伊東孝之・井内敏夫・中井和夫編『世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』新版(1998・山川出版社)』『東京農大ウクライナ100の素顔編集委員会編『ウクライナ100の素顔――もうひとつのガイドブック』(2005・東京農大出版会)』『黒川祐次著『物語 ウクライナの歴史――ヨーロッパ最後の大国』(中公新書)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ウクライナ」の意味・わかりやすい解説

ウクライナ
Ukrayina

正式名称 ウクライナ。
面積 60万3549km2
人口 4387万9000(2021推計)。
首都 キーウ

ヨーロッパ東部の国。北はベラルーシ,北東と東はロシア,西はポーランド,南西はスロバキアハンガリールーマニアモルドバと接し,南は黒海アゾフ海に面する。国土はおもに平地からなるが,ところどころにドネツ丘陵ポドリスク丘陵などがあり,西部にカルパート山脈を含む。一般に穏やかな大陸性気候で,平均気温は南西部で 1月-3℃,7月 23℃,北東部で 1月-8℃,7月 19℃。年降水量は 400~600mm。北部は森林,中部は森林ステップ,南部はステップ地帯に入る。住民の 80%近くはウクライナ人,約 20%はロシア人。公用語はウクライナ語。都市人口は約 3分の2。9世紀から現れたキエフ公国はキーウ(キエフ)を首都とし,11~12世紀に栄えたが,13世紀タタール人の侵入により滅亡し,16世紀ウクライナはポーランド領となった。17世紀に入り勢力を増したザポリージャ・コサックは分離運動を起こし,やがてロシアの援助を得て,1654年にはロシアと合併した。1917年独立し共和国成立,1922年ウクライナ=ソビエト社会主義共和国としてソビエト連邦に加盟したが,1991年独立を宣言。今日の国名に改め,独立国家共同体 CISに加盟。資源が豊かで,石炭,石油,鉄鉱石,マンガン鉱,カリウム塩などの埋蔵量が多く,19世紀からドネツ炭田(ドンバス)を中心に工業が発展していた。ドンバス川,ドニプロ川(ドネプル川)流域に大工業地帯があり,各種冶金,機械,化学,食品などの工業が発達している。また大農業国で,国土の 50%を占める肥沃な黒土地帯を利用して,コムギ,トウモロコシ,テンサイ,ヒマワリ,ブドウなどの栽培や畜産が盛んである。土地改良も進められ,灌漑設備が各地でつくられている。ドニプロ川,ドニステル川(ドネストル川),ドナウ川などの河川が流れていることと,黒海に面していることから水運が発達し,陸上交通網も密度が高い。1986年4月キーウ北方のチョルノービリ(チェルノブイリ)で史上最悪の原子力発電所事故が発生した(→チェルノブイリ原子力発電所事故)。2014年,ロシアが南部のクリミア半島の編入を宣言したが,国際的には承認されていない。2022年2月にはロシアが国境を越えてウクライナ本土に侵攻し,戦闘状態となった。

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