マクマホン・ライン
McMahon line
1914年3月,シムラ会議開催中に,イギリスとチベットが秘密裏に合意したイギリス領インド北東部とチベット間の境界線。イギリス側代表団首席のマクマホンHenry McMahonが線引きしたもので,東側はディプ峠から西はタワングをインド側に含め,ブータン国境に至るラインである。第2次大戦後,中華人民共和国はマクマホン・ラインをイギリス帝国主義の遺産として承認できないとの立場をとったが,1960年のビルマ(現ミャンマー)との国境協定では若干の修正をしただけで事実上マクマホン・ラインを国境として承認した。しかし,中印国境は未確定として北西部のアクサイ・チン領有問題を含めマクマホン・ラインもあらためて協議しようとする中国に対し,領土問題は確定済みとするインドが対立し,62年の中印紛争後も未解決の問題として残されている。
→中印国境問題
執筆者:清水 学
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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マクマホン・ライン
まくまほんらいん
MacMahon-line
1914年3月、イギリス、中国、チベットの三者によるシムラ会議の際、イギリス全権マクマホンSir Arther Henry MacMahon(1862―1949)とチベット全権との間に結ばれたブータン東方のインド北東部とチベット間の境界線。この地域の係争面積は9万平方キロメートルに達する。中国側は正式の署名調印を拒否した。インド側はこの線を中国・インド両国間の国境線と主張し、制圧したが、中国側は認めず、1962年の国境紛争の主要舞台となった。87年2月20日、インド政府はこの地域にアルナーチャルArunachal州を正式に設置したが、その翌日、中国外務省スポークスマンはマクマホン・ラインとアルナーチャル州を承認しないと声明した。その後88年12月、ネルー首相訪中以来34年ぶりにラジブ・ガンディー首相が訪中、平和五原則を再確認して中印国境問題解決のため、合同グループを設置することで合意した。
[安藤正士]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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マクマホン・ライン
McMahon Line
1913~14年に行われたイギリス代表とチベット代表の間のシムラー会議で,秘密合意されたイギリス領インド北東部とチベットの境界線。イギリス代表マクマホンが定めた。チベットに対する伝統的宗主権を受け継ぐと主張する中華人民共和国は,イギリスの強圧下で結ばれた境界を承認せず,現在までインドとの間では同境界を確定したものと認めていない。しかしビルマとの間では,60年に若干の修正を行ったうえで国境として合意した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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マクマホン・ライン
McMahon Line
1914年に定められた,イギリス統治時代のインドのアッサム州と,当時のチベットとの国境線。マクマーン・ラインともいう。東部ヒマラヤ山頂の分水嶺を約 885kmにわたり走る。 13年 10月~14年7月のシムラ会談で,チベット代表とイギリスの H.マクマホンとの間で成立した。中国の代表も会談に参加したが,チベットは中国の属領であり,条約締結権がない,と主張してシムラ協約への署名を拒否した。以後中国はこの態度を変えず,独立インドとの間に紛争が起り,ついに 62年 10月の中印国境紛争に発展した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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