日本大百科全書(ニッポニカ) 「中印国境紛争」の意味・わかりやすい解説
中印国境紛争
ちゅういんこっきょうふんそう
中国とインド両国間の国境をめぐる紛争。1954年に中印両国は平和五原則を声明し、紛争の平和的解決を確認したが、59年にチベット反乱が起こりダライ・ラマ14世がインドに亡命したのを契機に、同年8月と10月に両国の東部および西部国境で衝突が発生した。ついで62年10月、中国軍は東部および西部国境で大規模な攻撃を行いインド軍を敗走させたのち、もとの国境線に引き揚げた。
係争地域は西、中、東部の3地域があり、西部は中国新疆(しんきょう)ウイグル自治区アクサイチン、インド・ラッダーク地区で、中国の建設した新疆・チベット公路があり、中国が支配している。中部はシプキ峠、マナ峠を含む中印国境地帯、東部はブータン東方の中国・チベットとインド・アッサム地域でマクマホン・ラインが実際上の国境となっている。中国側の発表によれば、紛争地域は合計12万5000平方キロメートル(以下キロと省略)にわたり、東部9万平方キロ、中部2000平方キロ、西部3万3000平方キロを占めている。
中印両国の基本的主張は、1950年代末期から60年代初期にかけてのネルー・インド首相と周恩来(しゅうおんらい)中国首相との往復書簡、国境会談によって明らかにされた。西部では、インドは、伝統的国境線はすでに存在し、全ラッダーク地区はインド領であるとしているのに対して、中国は、国境線は未確定であり、全アクサイチン地区を中国領であると主張し、東部では、インドはマクマホン・ラインを国境線と主張するのに対し、中国は、1914年のシムラ条約に当時の中国政府は調印していないのでこれを認めず、国境は未確定であり、プラーフマ・プトラ川北岸を国境線と主張している。中部でも、マクマホン・ラインを国境とするインドと、これを認めないとする中国の主張は対立している。
1960年代後半の中国の文化大革命以後、両国の対立は深まったが、81年から関係改善と国境会談が行われ、88年12月、ネルー首相訪中以来34年ぶりに、ラジブ・ガンディー首相はナラシマ・ラオP. V. Narasimha Rao(1921―2004。のちインド首相)外相らを随伴して中国を訪問、平和五原則を再確認して中印国境問題解決のため、合同グループの設置で合意した。その後91年12月、李鵬(りほう)首相が31年ぶりにインドを訪問、国境貿易の再開の協定に調印、94年7月には銭其琛(せんきしん)外相がインドを訪問、ラオ外相との会談で国境地帯の兵力削減には、さらに時間が必要との認識で一致した。2003年にはバジパイ首相が訪中し、包括協力宣言に調印。以降両国の経済協力関係強化や国境問題に関する話合いが進んでいる。
[安藤正士]