中印国境問題(読み)ちゅういんこっきょうもんだい

共同通信ニュース用語解説 「中印国境問題」の解説

中印国境問題

インドは北部ラダック地方のほか、北東部アルナチャルプラデシュ州などでも中国と国境問題を抱える。1962年には大規模な衝突発展。実効支配線に関する主張に隔たりがあるが、問題を棚上げして経済面などで関係を前進させてきた。両軍は2017年、ブータンを含む3カ国の国境地帯で約2カ月間にらみ合った。(ニューデリー共同)

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改訂新版 世界大百科事典 「中印国境問題」の意味・わかりやすい解説

中印国境問題 (ちゅういんこっきょうもんだい)

アジアの二大国,中国とインドとの間には,世界の屋根といわれるカラコルム山系および大ヒマラヤ山系が,東西約3200kmにわたって走っている。現在両国合意の下に画定された国境線はない。国境問題に関しての中国側の主張は,双方の行政管轄範囲に基づいて,古くから二つの山系の南麓に沿って,伝統的な慣習上の境界線が形づくられているが,この境界線を基礎にして平和五原則に従った,友好的な交渉によって解決すべし,という。この慣習上の境界線は,ネパールから西へは,中国の新疆ウイグル自治区とインドのジャンムー・カシミール州との接する西部区,それとチベット自治区とインドのパンジャーブおよびウッタル・プラデーシュの2州が接する中部区とから成る。またブータンから東へは,チベット自治区とインドのアッサム州が接する東部区の1区のみで,総じて国境全線は三つの区から成っている。これに対してインド側は,旧支配国イギリスから譲渡されたものとしてイギリスが力で設定した境界線が国境線であると主張している。すなわち東部区では慣習線よりはるか北方の1914年に設定の〈マクマホン・ライン〉を,中部区では慣習上の境界線にほぼ沿って走る境界線を,西部区では慣習線の中国側にあって中国が自国領としているアクサイチン地方と,新疆ウイグル自治区との境界線をそれぞれ国境線であるとし,中国の主張に反対している。

 こうして中印両国の国境問題をめぐる対立は,1950年来紛争化し,60年4月ニューデリーでのネルー=周恩来会談による友好的解決の努力にもかかわらず,62年には10~12月の国境全域にわたる軍事大衝突の発生,事実上の国交断絶までに事態は発展した。しかし70年の初め両国の和解が始まり,81年12月,続いて82年5月と2回にわたり中印会議が開かれ,86年ラジブ・ガンディー首相の北京訪問以後,国境問題の話合いが開始されている。
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百科事典マイペディア 「中印国境問題」の意味・わかりやすい解説

中印国境問題【ちゅういんこっきょうもんだい】

東部のアッサム地区,西部のラダック地区の国境線をめぐる主張の食い違いから中国とインドの間で起きた紛争。西部国境では,1956年に中国がラダック北方のアクサイ・チン地方を通って新彊とチベットを結ぶ道路を建設した。東部国境では,1914年のシムラ会議の決定に基づく国境線に中国が異議を唱えたが,インドは話し合いを拒んだ。1959年ダライ・ラマがインドに亡命したのを機に武力衝突が発生。1962年には東西国境で中国が攻撃を開始,圧倒的勝利を収めてアクサイ・チンを支配下においた。両国関係は長く緊張が続いたが,1980年代後半以降,改善に向かい,2003年の中印共同宣言では〈双方が受入れ可能な解決策〉の模索で一致した。
→関連項目アジアインドカシミールチベット問題メノン

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世界大百科事典(旧版)内の中印国境問題の言及

【チベット問題】より

…チベット問題とは,国際的には主として中印国境問題であり,国内的には漢族とチベット族の関係すなわち少数民族問題およびチベット自治区の民主改革問題のことである。チベットは清朝統治下にあっても,ダライ・ラマを頂点とする独特の宗教支配をたもってきた。…

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