中華人民共和国(読み)ちゅうかじんみんきょうわこく

精選版 日本国語大辞典 「中華人民共和国」の意味・読み・例文・類語

ちゅうか‐じんみんきょうわこく チュウクヮ‥【中華人民共和国】

ユーラシア大陸東部にある人民共和国。東部はやや湿潤平野からなり、内陸部は乾燥気候で、山地高原盆地が多い。大多数を占める漢民族のほか、五五の少数民族からなる多民族国家北京上海・天津の三直轄市と、二二省、五自治区、二特別行政区(香港マカオ)に分かれる。中国国民党との内戦勝利を得た中国共産党の全国統一により一九四九年一〇月、毛沢東主席として成立首都北京。中国

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デジタル大辞泉 「中華人民共和国」の意味・読み・例文・類語

ちゅうか‐じんみんきょうわこく〔チユウクワ‐〕【中華人民共和国】

アジア大陸東部を占める共和国。1949年10月1日、国民党との内戦に勝利を得た中国共産党の全国統一によって、毛沢東を主席として成立。首都、北京。全人口の9割を超える漢民族中心にして、55の少数民族からなる多民族国家。面積約959万7000平方キロメートル。人口14億2070万(2021)。中国。PRC(People's Republic of China)。→中国
[補説]中華人民共和国の22省
安徽あんき雲南海南河南河北甘粛かんしゅく広東カントン貴州吉林江西江蘇黒竜江湖南湖北山西山東四川しせん青海浙江せっこう陝西せんせい福建遼寧りょうねい

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百科事典マイペディア 「中華人民共和国」の意味・わかりやすい解説

中華人民共和国【ちゅうかじんみんきょうわこく】

◎正式名称−中華人民共和国People's Republic of China。◎面積−957万2900km2台湾を含む)。◎人口−13億3972万人(2010)。◎首都−北京Beijing(1229万人,2013)。◎住民−漢民族92%のほか,チワン族,ウイグル族,イ族,チベット族,ミヤオ(苗)族など55の少数民族。◎宗教−宗教活動は制限されており,イスラム1%,キリスト教,ラマ教などが少数。◎言語−漢語(北方語,呉語,客家(ハッカ)語など)が大部分。共通語は北京語を基礎とした〈普通話〉。その他少数民族の言語。◎通貨−元Yuan,香港ドルHong Kong Dollar。◎元首−国家主席,習近平(2013年3月選出。任期5年。2012年11月共産党総書記就任)。◎首相−李克強(2013年3月選出。任期5年)。◎憲法−1982年12月発効。◎国会−一院制の全国人民代表大会(省,直轄市,自治区および人民解放軍選出の代表よりなる。2011年3月第11期の代表は2979名,任期5年)。◎GDP−7兆9164億ドル(2008,台湾を除く,以下同じ)。◎1人当りGDP−5962ドル(2008)。◎農林・漁業就業者比率−64.9%(2003)。◎平均寿命−男72.4歳,女77.4歳(2010)。◎乳児死亡率−16‰(2010)。◎識字率−94.0%(2009)。    *    *略称は中国。1949年10月1日中国本土に成立した人民共和国。〔自然・住民〕 ユーラシア大陸の南東部に位置し,太平洋に臨む。朝鮮民主主義人民共和国,ロシア,モンゴル,カザフスタン,キルギス,タジキスタン,アフガニスタン,パキスタン,インド,ネパール,ブータン,ミャンマー,ラオス,ベトナムに接し,海を隔てて韓国,日本,フィリピンに対している。90%以上が漢民族,他にモンゴル族,チベット族,トルコ系諸族(回族その他),ウイグル族,チワン族,ミヤオ族,ヤオ族など55種の少数民族を含む。行政上は4直轄市(北京,上海,天津,重慶),23省,5自治区(内モンゴル自治区寧夏回族自治区新疆ウイグル自治区広西チワン族自治区チベット自治区)に分轄。多民族国家として建国前後から民族政策を重視して民族区域自治を採り,5自治区のほかに少数民族の集住するレベルに応じて自治州,自治県などを置いている。自治権を行使しうる民族集団か否かを確認するために,1950年から国家民族事務委員会が〈民族識別工作〉を実施し,1979年までに上記55の少数民族を認定した。〔自然〕 自然環境は面積広大で地勢が複雑なため多様にわたるが,1.チベット〜雲貴高原,2.新疆・モンゴル高原,3.中国本土と東北地区平原に3大別できる。チベット高原は世界第1の高原で,黄河長江(揚子江)をはじめ,メコンメナム,ガンジス(ガンガー),インダスなど諸大河の源流地域である。新疆・モンゴル高原は乾燥した山岳と砂漠,草原地帯で,耕作地帯に乏しく,降水量は少なく,ともに産業は不振である。中国本土は東西に走る秦嶺山脈の線と南北に走る興安嶺山脈の線により,西高東低で,華北・華中・華南に分かれる。華北は降水量少なく,大陸性気候で黄土(レス)層地帯が広がり,ダイズ,小麦,綿花などの畑作が中心である。華中華南は降水量多く,温暖湿潤で,南部では亜熱帯・熱帯性気候を呈し,稲作中心の水田農業が主で,茶,桐油,果物などを産する。また水稲二期作地帯もある。一般に華北と華中・華南では文化,言語,体質,集落組織,風俗などに顕著な差がみられる。東北はやや独立的自然環境をもち,降水量少なく,中国最寒区の一つ。交通は東北地区に最も発達した鉄道網をもち,華北・華中がこれに次ぐ。チベット,北西部,南西部の地区は未発達で,解放後,自動車道路の開発が進められている。海運は大連秦皇島青島(チンタオ),連雲港上海福州天津アモイ(厦門)汕頭(スワトウ),広州湛江等の各港を中心に行われ,内陸水運は長江と珠江がよく発達する。〔産業〕 解放後,第1次五ヵ年計画(1953年―1957年),第2次(1958年―1960年),計画調整期(1961年―1965年),第3次(1966年―1970年),そして第9次(1996年―2000年)まで建設路線の変遷をみた。農林業では全国的土地改革,大治水工事,植林などで生産が増大した。牧畜は品種改良,疫病防除が進んだ。鉱工業は北部の鉄・石炭・金・石油,南部のスズ・水銀・タングステンその他の特殊金属で大きく生産が向上した。近代工業は従来,東北地区南部,上海,武漢などに限定されていたが,近年は内陸地帯にも広く分布。さらには広東省などの沿海部での発達が著しく,とりわけ1970年代末からの改革・開放政策の推進と,これに伴う〈経済特区〉や〈沿岸開放都市〉などの設置が中国経済の基幹を根本的に変えた。また農村では1980年から〈生産請負制〉が導入され,農家1戸ごとに支給された土地で,家族単位で農業に従事する方式に移行(人民公社は1985年までに解体)。農村の余剰人口を吸収するために〈郷鎮企業〉が町村営・個人経営で設立された。〔歴史〕 周口店におけるシナントロプス・ペキネンシスの人骨をはじめ,オルドス,山西省丁村などから旧石器時代の遺物が発見されている。新石器時代には定住農耕民である漢族が集落を形成し,彩陶・黒陶文化を育成した。殷(いん)〜周代には独特の青銅器文化が発達し,封建制度の原型が確立した。前8世紀,代の後半には諸侯は中原に覇を争い,産業・思想・学術が発達し,諸子百家が生まれた。前221年が最初の統一王朝を創建し,中央集権,郡県制下に急激な統制政策を強行したが失敗,がこれに代わった。秦漢400余年の間に,以後中国史を一貫する帝王を頂点とする官僚組織が定型化され,中国独自の各種文物がほぼ確立し,儒教は国教の位置を占めた。また漢族は長江を越えて南に発展し,さらに西方へも進出して,先住異民族の中国化を促進,中国文化圏を拡大した。漢末には群雄割拠し,三国鼎立(ていりつ)(三国時代)を経て分裂し,北部には異民族が入って五胡十六国時代を現出したが,次第に中国化し,さらに南北朝の対立となった(〈魏晋南北朝時代〉参照)。この間,外来宗教である仏教の弘通(ぐつう)で,道教の成立をみるなど思想・学芸上に大きな影響があった。 589年が天下を統一,618年がこれを継承し,世界最強最大の文明国となった。西方との交通により世界史的規模の文化が繁栄し,周辺諸民族の自覚を促進,東アジア文化に一大転換期を迎えた。五代十国50余年の紛乱と分裂の後,が統一したが,その文治主義政策は外患を招き,神宗と王安石の富国強兵策も失敗し,西夏に譲歩を余儀なくされ,に屈服し,中国の北半を失って1127年南方に移った。13世紀初頭モンゴルが北方に興起し,史上空前のモンゴル帝国を建設,中国全土を征服支配し,漢族を圧倒してと称した。約100年後,朱元璋は1368年を創建し,君主独裁権を確立して,中国文明を復興した。明代末ごろヨーロッパ人の来通もあったが,東北地区に興起した女真の一族によって明は滅ぼされ,が建てられた。〔清から中華民国,中華人民共和国へ〕 清朝初期の康煕(こうき)帝乾隆帝3代130余年は史上未曾有の富強時代となったが,清朝末期には諸外国の帝国主義的侵略が,中華独尊思想を破砕し,ロシアは北・西辺より侵入,1840年―1842年のアヘン戦争以後,アロー戦争清仏戦争日清戦争等の連続した敗戦で半植民地に転落した。しかし,〈滅満興漢〉を旗印とした民族革命熱が激化し,辛亥(しんがい)革命によって1912年孫文が指導した中華民国が成立した。一方旧軍閥・官僚の政権争奪は続き,1924年―1927年の第1次国共合作で革命を推進したが,1928年北伐完成後,中国国民党独裁の中国国民政府が支配し,中国共産党を弾圧した。排日運動の激化と日本の対中国強硬策のため満州事変,続いて日華事変(日中戦争)が勃発(ぼっぱつ),これを機に第2次国共合作と抗日民族統一戦線を結成し,米ソの援助によって抗日戦争を継続した。第2次大戦後,国共の抗争は再び激化し,終局的には中国共産党の人民解放軍が勝利を収めた。一方,中国国民政府は本土を失って台湾にのがれ,米国の援助のもとに政権を保持してきたが,近年は経済成長が著しく,1980年代末からは大陸との交流を推進している。〔中華人民共和国成立以後〕 国内戦に勝利した中国共産党は,1948年民主勢力を糾合した中国人民政治協商会議を提唱,1949年9月第1回全体会議で共同綱領を決定した。新国家の性格を新民主主義国家と規定し,同年10月1日,毛沢東を元首として中華人民共和国が成立した。さらに,1954年に憲法を制定した。最高機関は全国人民代表大会で,元首は国家主席,行政は国務院,司法は最高人民法院,検察は最高人民検察署がつかさどる。1950年以後,土地改革の完成(〈中国土地改革法〉参照),工業・商業の合理的調整,国家経費の節減を中心に封建的腐敗を排除して,経済・社会・文化の各方面で諸種の改革を断行した。これにより革命後の混乱を急速に収拾し,1950年には中ソ友好同盟相互援助条約締結をはじめ諸外国との外交も促進した。朝鮮戦争の苦難を越え,1953年第1次五ヵ年計画,人民代表大会の選出など政治・経済の面で長期建設実践の段階に入った。一方,1959年から3年連続の自然災害,1960年7月以来の中ソ論争など,内外に大問題をかかえつつも,社会主義から共産主義への移行とされる人民公社を拡大させた。また1964年10月16日には最初の原爆実験を行うなど,軍事面での強化を示し,国際的にもその比重を増した。1965年から始まった文化大革命は,10年にわたって各方面に混乱をもたらしたが,その間に中国の国連参加,米中首脳会談開催,西ドイツ,日本との国交再開などが行われ,第4次五ヵ年計画も開始された。 1970年代の中国は,毛沢東,周恩来の指導体制が弱体化するなかで江青,張春橋,姚文元,王洪文の〈四人組〉が台頭し,極左路線を推進したため,経済は大きく混乱した。周恩来,毛沢東の死後の1976年に四人組を打倒して華国鋒政権が成立。同政権は1977年に第1次文化大革命の終結を宣言。さらに農業,工業,国防,科学技術の〈四つの現代化〉に着手し,従来の路線から経済建設・生産力発展路線に転換した。対外的には西側への接近を図ったが,対ソ関係は中ソ友好同盟相互援助条約を廃棄するなど,対立を深めた(1989年首脳会談で和解)。〔改革・開放政策と経済成長,超大国化の時代〕 1970年代末には毛沢東遺制への批判が強まり,華国鋒に代わって1980年9月首相に趙紫陽,1981年6月主席に胡耀邦が就任した。1982年9月主席制度を廃止し,【とう】小平の支持の下に胡耀邦が党総書記に就任したが,1987年1月党内保守派により解任され,後任の趙紫陽も,1989年6月北京の天安門広場を中心として中国全土に広がった学生・市民の民主化運動(天安門事件)への対応を保守派から批判され解任された。【とう】小平のあと押しで後任の党総書記に就任した江沢民は,その後,党および国家の中央軍事委主席につき,1993年国家主席にも選ばれて政権の基盤を固めた。 この間,1980年代末から1990年代初めにかけて東欧・ソ連の社会主義体制が崩壊するなかで,中国は改革・開放政策のもとで社会主義市場経済の建設を至上命題としつつ,20年以上にわたり年平均9%以上の実質GDP成長率を達成し,2010年にはGDP規模で日本を追い抜き世界第2位の経済大国となった。しかし,他方では,都市と農村の経済格差の拡大に伴う各種の社会的問題への対応(例えば〈盲流〉〈民工潮〉などと呼ばれる出稼ぎ農民の激増),環境問題,民族自治区における動向(チベット,新疆ウイグルなどの自立への志向),台湾との関係,1997年7月に返還された香港,1999年12月に返還されたマカオで〈一国二制度〉をどのように実現するのか等,課題は多様である。2003年3月に開かれた第10期全国人民代表大会で,江沢民国家主席と朱鎔基首相の後任に胡錦濤(2002年11月党総書記に就任),温家宝がそれぞれ選出された。2004年9月,江沢民が党中央軍事委主席を辞任,同委副主席の胡錦濤が昇格した(同委副主席の後任は徐才厚)。2008年胡錦濤国家主席,温家宝首相が再任され,国内的には和諧社会をスローガンに高度経済成長のひずみ是正に取り組む姿勢を明らかにした。また同年北京オリンピック開催を成功させた。しかし,オリンピック開催準備中にチベット族への人権抑圧などに抗議する運動が世界中で展開された。また2009年7月には,新疆ウイグル自治区のウルムチで,ウイグル族と漢族の大規模な衝突が発生。イタリアのラクイラで開催されていたサミットから胡錦濤が急遽帰国を余儀なくされるなど,少数民族問題,人権問題をはじめ国内問題は山積している。さらに国際的にも,世界経済の中心となった中国には,地球温暖化対策など地球的規模での課題への新たな取り組みが求められた。中国は2001年12月,台湾とともにWTO(世界貿易機関)に加盟した。日本との関係では,2006年日本の対中貿易額が対米貿易額を抜き,中国は日本の最大の貿易相手国となった。一方,小泉首相の靖国神社参拝などによって首脳外交は5年余りも途絶え,政治交流は冷え込み,〈政冷経熱〉と呼ばれる状態が続いたが,2006年以降,首脳外交が復活,〈戦略的互恵関係〉の構築に努力することで一致。2009年9月に発足した民主党政権が,東アジア重視の外交姿勢を打ち出したこともあり,日中の政治交流は一定の安定をみた。胡錦濤体制は2010年の上海万博を成功させ,世界第2位の経済力を背景に財政危機に苦しむEU諸国の支援にも乗り出した。しかし同時に,軍備増強と国家核心利益を主張して,周辺諸国に対しては軍事大国としてのプレゼンスも強め,尖閣諸島問題では日本と,南沙群島をめぐってはフィリピン,ベトナムとの緊張関係を作り出している。2012年11月の共産党大会で,胡錦濤は,総書記と党中央軍事委員会主席の座を習近平に譲り,2013年3月の全国人民代表大会で,習近平が国家主席に選出されて権力委譲プロセスが終了。李克強が温家宝の後を継いで首相に就任した。胡錦濤体制がかかげた和諧社会は2013年冬に主要都市で発生した大規模な大気汚染が象徴するように実現からほど遠いばかりか,体制そのものを揺るがした薄熙來事件,周永康事件が示すように利権をめぐる汚職・不正は体制内部の構造となっているとすらいえる。2010年のノーベル平和賞問題に見られるように,言論統制も一段と強化されている。自国の経済成長は7%代に鈍化しているなか,2014年習近平指導部は豊富な資金力を背景に,経済発展が見込まれるアジアへの投資を促進するとして,アジアインフラ投資銀行(AIIB)の創設を提唱している。
→関連項目上海万博全国人民代表大会中国中国国民政府溥傑BRICs北京オリンピック(2008年)

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旺文社世界史事典 三訂版 「中華人民共和国」の解説

中華人民共和国
ちゅうかじんみんきょうわこく

1949年に成立した社会主義国。首都北京
国共内戦に勝利後,1949年9月人民政治協商会議で共同綱領を制定し,10月1日毛沢東共産党主席,周恩来首相のもとに建国を宣言。
【1950年代】1950年の土地改革法,51年の三反五反運動の展開によって社会主義建設のための経済建設を開始。53年第1次5か年計画を開始し,54年に中華人民共和国憲法を制定,毛沢東が国家主席に就任。その後,農業共同化を進めながら,1956〜57年整風運動としての反右派闘争を展開,58年から人民公社建設を軸とした大躍進政策を掲げて第2次5か年計画に着手。しかし,3年連続の天候不順,指導上の欠陥,非公然に開始されていた中ソ対立によるソ連の支援打ち切りなどで大躍進政策は失敗し,1959年国家主席が劉少奇に代わり,彼の下で調整政策がとられた。この間,外交面では1950年2月中ソ友好同盟相互援助条約を締結,10月朝鮮戦争に義勇軍を派遣し,54年のジュネーヴ会議や55年のアジア−アフリカ会議などで非同盟諸国と連帯をはかる。しかし,1959年チベット問題からインドとの国境紛争が発生。
【1960年代】1962年ころから中ソ対立が公然化する中,64年核実験を行い第5番目の核保有国となり,国際政治に大きな影響をおよぼす。いっぽう国内では,経済建設,中ソ対立,ヴェトナム戦争への対応などをめぐり党内闘争が始まり,1966年毛沢東の指令によってプロレタリア文化大革命が開始された。国際的孤立感が深まる中,1969年中ソ間の対立は珍宝島やイリ地域での武力衝突にまで発展した。
【1970年代】国際面では,1971年台湾中華民国政府に代わって国連代表権を獲得,72年アメリカ大統領ニクソンの訪中で米中接近が始まり,また日本と国交を樹立した。国内では,文化大革命が続く中,1971年林彪 (りんぴよう) の逃亡・撃墜事件が起こり,73年には鄧小平が復活するいっぽう,毛沢東夫人の江青ら四人組によって周恩来批判を意図した批林批孔運動が展開された。1976年にはいると1月に周恩来が死去し,4月の(第1次)天安門事件で鄧小平が再度失脚し,四人組の権力が強化された。9月毛沢東が死去すると,翌月,後継者に指名された華国鋒が四人組を逮捕し,文化大革命の終結が宣言された。華国鋒体制のもと,1977年鄧小平が再度復活し,78年末から実質的には彼が主導権を握り,10年間の文化大革命で混乱した政治・経済・軍事・科学技術を復興させる目的で,79年「四つの現代化」と開放経済など現実的政策が打ち出された。国際面でも1978年日中平和友好条約を調印,79年アメリカと国交を樹立するいっぽう,ヴェトナムと戦争(中越戦争)を起こした。また1980年に期限の切れる中ソ友好同盟相互援助条約の更新を拒否した。
【1980年代】1980年華国鋒が失脚し,鄧小平体制の下,趙紫陽 (ちようしよう) が首相,81年には胡耀邦 (こようほう) が党主席に就任し,中央委員会総会が文化大革命を全面否定した。1982年に党主席制が廃止され,胡耀邦が総書記に就任。胡・趙体制は保守派を排除しながら経済の対外開放,農村経済改革を進め,1984年から都市経済改革に着手し,85年人民公社の解体を決定(1989年に完了)。1989年胡耀邦の死去を機に民主化を求める学生運動が発生すると,(第2次)天安門事件で,政府は武力でこれを弾圧,国際的非難が高まった。この事件の責任を負わされて趙紫陽が失脚し,江沢民が総書記に就任。この間国際面では,1984年12月イギリスとの間で香港返還協定が調印され(返還は1997年7月),89年のゴルバチョフ訪中で関係が改善された。
【1990年代】「全方位外交」を進める中,1992年にはイスラエル・大韓民国と国交を樹立。国内では1993年,82年憲法を修正して経済活動の自由化の幅を拡大し,企業の自主権拡大と独立採算制を承認。さらに江沢民が国家主席に選出され,李鵬が首相に就任し,民主化運動や「台湾問題」に強硬姿勢をみせている。また,1996年ころからチベット自治区や新疆ウイグル自治区での民族問題が表面化してきた。1997年鄧小平が死去するが,江沢民体制は改革開放路線の継承を発表。7月香港返還が実現され,返還後は特別行政区として一国家二制度(一国両制)のもと,特別な地位・待遇が認められた。また1999年12月,ポルトガルからマカオが返還された。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「中華人民共和国」の解説

中華人民共和国(ちゅうかじんみんきょうわこく)

中華人民共和国は,1949年10月1日に建国が宣言された。中国共産党が45年8月の日中戦争終結後に本格化した全国政権をめぐる国民党との内戦に勝利して,中華民国に代わって建国された。建国準備段階では,「中華人民共和国」だけでなく,「中華人民民主共和国」や「中華人民民主国」が国名として提案されるとともに,国名の略称として国民党が政権を担ってきた「中華民国」を使用してもよいとの意見もあった。しかし,新中国が「労働者階級が指導し,労農同盟を基礎とする」国家であり,その政治体制である「人民民主独裁」を代行する共産党の指導を徹底するために,「中華人民共和国」が正式に採用され,「中華民国」の使用が禁止された。中華人民共和国は建国以来,一貫して中国共産党が唯一の政権党として統治している。共産党は一方で1840年のアヘン戦争以来の近代中国がめざしてきた失地回復の愛国主義を実現する新中国の国家建設を目標とするとともに,他方で過去の革命遺産の保持と共産主義社会の実現を目標に掲げ,中華人民共和国は両者の間で動揺し続けてきた。1966年から76年の文化大革命は,まさにこうした動揺の象徴であり,今では「悲惨な内乱」と否定されるのである。78年以来,中華人民共和国は革命から「現代化」建設への劇的な路線転換を図り,経済発展を「一つの中心」として最重要課題にし,そのために改革・開放政策を実施してきた。従来の統制・計画経済を「硬直した社会主義」と否定し,共産党指導の堅持を除けば,資本主義そのものといってよい「社会主義市場経済体制」の全面確立をめざしている。その延長線上で,2050年前後の「中華民族の偉大な復興」の実現が繰り返し語られるのである。「中華人民共和国」はその意味では,国民党の創始者である孫文が1912年に建国した「中華民国」の継承国家であるといってよい。

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世界大百科事典 第2版 「中華人民共和国」の意味・わかりやすい解説

ちゅうかじんみんきょうわこく【中華人民共和国 Zhōng huá rén mín gòng hé guó】

正式名称=中華人民共和国People’s Republic of China面積=960万km2人口(1996)=12億2390万人(台湾・香港・澳門を除く)首都=北京Beijing(日本との時差=-1時間)主要言語=中国語(漢語)通貨=元Yuan
【概況】

[建国]
 1949年10月1日,北京(当時は北平と呼ばれた)の天安門楼上で,中国共産党主席毛沢東は,中華人民共和国の成立を高らかに宣言した。これによって,台湾および金門,馬祖など若干の島嶼(とうしよ)をのぞき,中国大陸に真の統一国家が実現し,この日はこれ以後,建国記念日,すなわち国慶節として国家の記念日に指定された。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「中華人民共和国」の解説

中華人民共和国
ちゅうかじんみんきょうわこく

抗日戦争・内戦をへて1949年10月1日に成立した国家。4直轄市・22省・5自治区,2特別行政区(香港・マカオ)がある。97年の香港返還,99年のマカオ返還により,アヘン戦争以来の半植民地的地位を完全に脱した。内政の機構は全国人民代表大会(立法)・国務院(行政)・人民法院(司法)となっているが,中国共産党の政治指導下にある。実質的な権力者は1976年までは毛沢東,78年までは華国鋒(かこくほう),それ以降は鄧小平(とうしょうへい),江沢民(こうたくみん),胡錦濤(こきんとう),習近平(しゅうきんぺい)と続く。近年,急激な経済成長を達成し,経済大国になる。日本は第2次大戦後国交回復の相手国として中華民国(台湾)を選択したため,72年9月の日中国交正常化まで国交はなかった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「中華人民共和国」の解説

中華人民共和国
ちゅうかじんみんきょうわこく

1949年,毛沢東を国家主席として,中国共産党が中心となって建設した社会主義国家
首都は北京。第二次世界大戦後,国共両軍の内戦がおこり,中国共産党は蔣介石の率いる中国国民党を台湾に追いやった。北京で人民代表による人民政治協商会議が開催され,1949年10月1日,中華人民共和国が成立。'72年日本と正式の国交を,'78年には日中平和条約を結んだ。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「中華人民共和国」の意味・わかりやすい解説

中華人民共和国
ちゅうかじんみんきょうわこく

中国

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中華人民共和国」の意味・わかりやすい解説

中華人民共和国
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