マルシリウス(パドバの)
Marsilius
生没年:1275ころ-1343
イタリアの政治論者。パドバに生まれ,初めこの町で医学を学んだが,後パリに出て哲学と神学とを修めた。1313年にはパリ大学の学長となる。北イタリアやアビニョンに滞在中に得た体験から,ヨーロッパの政治体制についての深い省察を呼びさまされたが,その成果が24年に完成した名著《平和の擁護者》である。平和は社会が達成すべき主たる目標であり,魂の救いに至る唯一の手段であるが,その擁護者はローマ教皇ではなく,神聖ローマ皇帝であるとして,教皇ヨハネス22世と皇帝ルートウィヒ4世との争いでは後者を支援した。その信念は権力の源泉に関する法学的見解に根ざしており,中世特有の教皇・皇帝権の並存・区分論とは基本的に異なるものであった。その意味でマルシリウスは政治思想の新しい進路を指示し,近代的国家観を育成する役割を果たしたが,教皇ヨハネス22世は1327年本書中の5命題を非難し,著者を破門した。
執筆者:今野 國雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
世界大百科事典(旧版)内のマルシリウスの言及
【中世科学】より
…それは1277年のパリの司教タンピエÉtienne Tempierの異端断罪に端を発し,アリストテレスの学説が批判されると,イギリスではブラドワディーンを中心にダンブルトンのジョンJohn of DumbletonやスワインズヘッドRichard Swinesheadらが,アリストテレス運動論の数学的難点を指摘し,この克服のために新たな数学的定式化を試み,そのなかには,ガリレイの〈落体の法則〉を先取りするものも現れた。大陸ではビュリダンを中心に,ニコル・オレーム,ザクセンのアルベルト,インヘンのマルシリウスMarsiliusらが,アリストテレス運動論の自然学的難点に注目し,あらためて〈インペトゥス理論〉を発展させ,〈運動量〉の概念,〈慣性〉の法則,〈等加速運動〉の幾何学的定式化などに向かった。こうした中世末期の運動論は,フランスの科学史家デュエムらにより〈近代科学〉のはじまりであると主張され,学界の注目を集めた。…
【ハイデルベルク大学】より
…正称ルプレヒト・カール大学Ruprecht‐Karl‐Universität。初代学長はパリ大学で教えていた唯名論者マルシリウス・フォン・インヘンMarsilius von Inghen(1330ころ‐96)。神,法,医,教養の典型的な4学部制をとっていたが,大学運営における国民団組織(ナティオ)の力は弱かった。…
【中世科学】より
…それは1277年のパリの司教タンピエÉtienne Tempierの異端断罪に端を発し,アリストテレスの学説が批判されると,イギリスではブラドワディーンを中心にダンブルトンのジョンJohn of DumbletonやスワインズヘッドRichard Swinesheadらが,アリストテレス運動論の数学的難点を指摘し,この克服のために新たな数学的定式化を試み,そのなかには,ガリレイの〈落体の法則〉を先取りするものも現れた。大陸ではビュリダンを中心に,ニコル・オレーム,ザクセンのアルベルト,インヘンのマルシリウスMarsiliusらが,アリストテレス運動論の自然学的難点に注目し,あらためて〈インペトゥス理論〉を発展させ,〈運動量〉の概念,〈慣性〉の法則,〈等加速運動〉の幾何学的定式化などに向かった。こうした中世末期の運動論は,フランスの科学史家デュエムらにより〈近代科学〉のはじまりであると主張され,学界の注目を集めた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」