改訂新版 世界大百科事典 「マルワーン家」の意味・わかりやすい解説
マルワーン家 (マルワーンけ)
ウマイヤ朝のカリフ14人のうち11人を輩出した家系,一族(〈ウマイヤ朝〉の項の系図参照)。その名称の由来は,始祖のマルワーン・ブン・ハカムMarwān b.Ḥakam(マルワーン1世)にある。ウマイヤ家に属するマルワーンは,第3代正統カリフ,ウスマーンの書記を務めた。ウマイヤ朝の創始者ムアーウィヤ1世の死後,反ウマイヤ家勢力によって一族とともにメディナを追放され,シリアで第2次内乱(683-692)を迎えたが,ヤジード1世の子のムアーウィヤ2世の夭折で推されてウマイヤ朝第4代カリフとなった(在位683-685)。685年,シリアの反ウマイヤ家で,メッカのカリフ,イブン・アッズバイルに従う勢力をマルジュ・ラーヒトの戦で一掃し,シリアでのウマイヤ家の地位を再確立し,没した。
子のアブド・アルマリク`Abd al-Malik(在位685-705)は第5代カリフとして父の事業を継承し,第2次内乱を終結させウマイヤ朝存亡の危機を救った。第8代のウマル2世と第14代のマルワーン2世を除くと,すべてアブド・アルマリクの子孫がカリフ位を継承したが,その2者ともマルワーンの子孫であるので,マルワーン以後のウマイヤ朝をスフヤーン家出身の前3代と対照的にマルワーン朝と呼んでさしつかえない。ワリード1世以後,マルワーン家の者同士がカリフ位を巡って敵対し,同家の団結力が衰え,これがウマイヤ朝滅亡の一因となった。756年,同家のアブド・アッラフマーン1世はアッバース朝の追跡を逃れて,コルドバでウマイヤ朝(後(こう)ウマイヤ朝)を再興した。
執筆者:花田 宇秋
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報