イベリア半島にあったイスラム王国(756~1031)。アッバース朝によるウマイヤ家一族の虐殺の難を逃れたアブドゥル・ラフマーン1世がイベリア半島に渡り、756年に建国した。首都はコルドバ。史料では「アル・アンダルス(イベリア半島におけるイスラム教徒の領地)のウマイヤ朝」または「コルドバのウマイヤ朝」とよばれる。支配層はアラブ人とベルベル人から構成されたが、少数のアラブ人が多数のベルベル人より政治的、経済的に優位にたっていた。土着のスペイン人とユダヤ教徒は被支配層を形成したが、前者のうちイスラムへの改宗者はムサーリム、生まれながらのムスリム(イスラム教徒)はムワッラド、キリスト教徒のままでアラブ化した者はモサラベとよばれた。このような構成民族と宗教の多様さは、建国の初めから治安を乱す要因であった。この問題に対し、代々のアミールまたはカリフは自己の権力強化のためにスラブ人やフランク人の奴隷兵(サカーリバ)を重用し、また国内の不満を外に向けて国内統一と安定を得るために、北方のキリスト教徒地域への聖戦(ジハード)を行った。国内統一と繁栄の基礎が築かれたアブドゥル・ラフマーン2世の時代(822~852)と、彼の死後の混乱期を経て、アブドゥル・ラフマーン3世の時代(912~961)に最盛期に達した。チュニジアのファーティマ朝に対抗してカリフを名のるようになったのも、彼の治世からである。王朝の経済的基礎は、北方のキリスト教国や北アフリカや東方イスラム地域との交易活動、織物、金銀や革細工、陶器などの手工業、オレンジやサトウキビやワタなどを栽培する農業にあった。中央行政はアミール(カリフ)の絶対的権限下に、ハージブ(侍従の意。権能は大宰相)を中心に複数のワジール(宰相)が担当した。20余の県(クーラ)はそれぞれワーリー(長官)によって統治された。
文化面では、アッバース朝との政治的対立にもかかわらず、つねに東方イスラム世界の影響を受け、歌手のジルヤーブ(857没)や学者のアブー・アリー・アル・カーリー(965没)などがバグダードから来住した。しかし王朝後期には、『アル・イクドル・ファリード(無類の頸(くび)飾り)』の著者であるイブン・アブド・ラッビヒ(940没)やイブン・ハーニウ(973没)らのアル・アンダルス出身の著名な詩人が出現した。法学では、ハカム1世がマーリキー学派を公認してから同派が主流になった。建築では、40万冊を収めていたといわれる図書館(ハカム2世建設)、コルドバの大モスク、ザフラーの宮殿(コルドバの西6キロメートル)などが芸術的水準の高さを誇っている。
976年ヒシャーム2世が11歳で即位してから、政治の実権はワジールやハージブに移り、ハージブ職についたアーミル家の独裁時代(981~1008)ののち、無政府状態となって1031年に王朝は滅亡した。
[私市正年]
イベリア半島における最大・最長のイスラム王朝で,同地のイスラム化に最も貢献した。756-1031年。ウマイヤ朝第10代カリフ,ヒシャームの孫のアブド・アッラフマーン1世が,アッバース朝の追手を逃れて,756年総督ユースフを破り,コルドバでアミールを宣して以来,1031年の滅亡まで,24代(19人)の君主のうち16人までがウマイヤ家出身者であったので,日本では後ウマイヤ朝と通称される。アブド・アッラフマーン1世は,カリフではなくてアミールと自称したが,それは彼の王朝がまだアッバース朝と比肩できず,またイスラム国家は一つで,しかも1人のカリフによって治められなければならないという伝統を重んじたからである。カリフを称したのは,8代目のアブド・アッラフマーン3世である。1世は,かつてのウマイヤ朝国家体制に範をとって内政に対処する一方,778年カール大帝とサラゴサの領有を争うなど王朝の基礎固めとその拡大に努めた。しかし,ダマスクスのウマイヤ朝以来のアラブとベルベルの支配者同士の反目,スペイン人改宗者(ムサーリム),土着ムスリム(ムワッラド),アラブ化したスペイン人キリスト教徒(モサラベ)等の不満は解消されることなく,王朝の支配体制はなお流動的であった。しかし,アブド・アッラフマーン3世はカリフと称し,領内の社会的統合を目指す政策を実施するとともに専制国家体制を完成し,ファーティマ朝と北アフリカ領有の覇を争った。同王朝の経済的基盤は,農業生産と工業生産,およびその輸出にあった。とくに,アラブの優れた灌漑技術による農地の拡大と農産物の量産が行われ,その集散地であるコルドバやセビリャは繁栄を極めた。幼少の君主ヒシャーム2世をめぐる宮廷内の権力闘争は,ワジール(宰相)でハージブであったマンスールal-Manṣūr(?-1002)の実権掌握で終わった。次いでマンスールは飽くなき対外戦争を行い,この結果同朝の領域は北アフリカの一部を含むにいたった。しかし,彼の死後,国内諸勢力・集団間の反目が本格化し,内戦へと発展した。ベルベル系のハンムード家出身者3人が相次いでカリフ位を襲い,さらにカリフ,ヒシャーム3世がハンムード家によりコルドバを追放されて同朝は滅んだ。
後ウマイヤ朝の文化は,絶えず東方の影響下にあり,多くの文化人が東方から移住し,またイベリア半島のムスリムも東方に留学し,帰国後優れた活動をした。とくに開明君主ハカム2世al-Ḥakam Ⅱ(915-976)がコルドバに図書館を建設して以来,同朝治下スペインのイスラム文化は飛躍的に発展した。法学ではマーリク派がザーヒル派やシャーフィイー派を駆逐し,支配的学派であった。また同朝時代には優れた文化人,すなわち,歴史家アリーブ`Arīb,詩人で《類いまれな頸飾》の著者イブン・アブド・ラッビフ,同じく詩人のイブン・ハーニーIbn Hāni’らを生んだ。一方,芸術・建築様式は,ウマイヤ朝のそれらを根底にしながらも,コルドバのメスキータの馬蹄形アーチにみられる西ゴート様式,宮廷都市ザフラーal-Zahrā'に残るビザンティン風の装飾など,東西の諸様式が巧みに融合されたものであった。
執筆者:花田 宇秋
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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756~1031
ウマイヤ朝が滅びた際,第10代カリフ,ヒシャームの孫アブド・アッラフマーンはスペインに走り,コルドバを都とする後ウマイヤ朝を興した。第8代アブド・アッラフマーン3世(在位912~961)の時代が全盛期で,カリフの称号をおびた。アッバース朝やファーティマ朝と対抗し,西方イスラーム世界(マグリブ)の文化は輝かしいものがあった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…そして756年にはダマスクスを追われたウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン1世が亡命政権を立てたことから,西方イスラム世界の首都となった。 後ウマイヤ朝期(756‐1031)はアル・アンダルスの最盛期であり,コルドバは西ヨーロッパ随一の規模に発展した。10世紀には,その周囲の城壁は全長12km,人口は10万,城壁外居住地区は21を数え,東方のバグダードやコンスタンティノープルとその威容を競った。…
※「後ウマイヤ朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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