改訂新版 世界大百科事典 「ライヘナウ修道院」の意味・わかりやすい解説
ライヘナウ修道院 (ライヘナウしゅうどういん)
中・近世のドイツの修道院。724年伝道者ピルミンが南西ドイツ地方ボーデン湖の小島ライヘナウReichenauに創建し,初代院長となった。カール・マルテルも大寄進をもって建設を助け,これをアラマンネン族の地へのフランク勢力浸透の拠点にしようとした。8世紀末からカロリング朝王権との結合が再び強まり,ベネディクト会の帝国修道院として9世紀にその最盛期を迎える。80ないし120人の修道士が共住し,近隣のザンクト・ガレン修道院と並んで,修道生活の指導的地位にあり,その《祈禱兄弟盟約者名簿》には盟約関係にある150以上の修道院と4万に近い修道士,聖職者,俗人の名まえが記載されている。学問,芸術の中心としても栄え,9世紀前半の院長はいずれも同時に宮廷人であり,かつ学者,教師または詩人である。821年のカタログによると図書館の蔵書は415巻を数えた。その後学問の中心はザンクト・ガレン修道院に移るが,芸術の伝統は維持され,10世紀後半から11世紀中葉までの第2の高揚期には写本画において〈ライヘナウ派〉と呼びうる作品,作風を生み出した(オットー美術)。今に残る三つの教会堂とそのフレスコ壁画もこのころに完成したものである。また11世紀初めから導入されたゴルツェ派改革運動は精神活動を再生させ,ヘルマンHermann der Lahme(1013-54)の《世界年代記》が著された。しかし11世紀後半以降,貴族層出身修道士の閉鎖性や所領の散逸が原因となって停滞する。16世紀にはコンスタンツ司教座に帰属,1757年解散した。
執筆者:早川 良弥
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報